新自由主義イデオロギーとマルクス経済学の危機
横浜市立大学 金子文夫
ソ連崩壊、冷戦構造の終焉以降、日本の大学の経済学部においてマルクス経済学の地位は激しく凋落した。それ以前は、近代経済学とマルクス経済学が経済理論の二大潮流であり、理論分野、応用分野、歴史分野で両系統の科目が並立した状態であった。1990年代以降、社会主義体制の衰退と並行して、まず理論の分野でマルクス経済学系の科目が消去されていった。新自由主義イデオロギーが優勢になるなかで、マルクス経済学に対する学生たちの関心が低下し、講義・演習の受講者が減少していったことが大きな要因であった。
とはいえ、理論分野を除けば、応用経済学(国際経済、労働経済、財政学など)、さらに経済史、経済学史などの科目では、マルクス経済学を学んだ教員たちが担当する場がそれなりに確保されていた。マルクス経済学系の若手研究者は、理論分野では大学に職を得られないとみて、応用あるいは歴史分野に専攻をシフトしていった。それゆえ、研究者の再生産過程は確保され、学会活動も基本的に維持されていた。
新古典派経済学が支配的になる大学の経済学
しかし、大学教育の世界標準を日本に導入するという最近の高等教育政策の展開のなかで、この状況に大きな変化が生じる可能性が生じてきた。文部科学省が大学教育の質保証を図る目的で、日本学術会議に対して、「分野別の教育課程編成上の参照基準」作成を要請したからである。これは大学教育における「学習指導要領」の作成にほかならない。学術会議は分野別委員会にこの作業を依頼し、すでに経営学、法学などの分野では一応の取りまとめがなされているようである。学術会議経済学委員会では参照基準検討分科会(委員長・岩本康志東京大学大学院経済学研究科教授)を2012年12月に発足させ、現在までほぼ月1回のペースで検討を進めている。
問題は、検討分科会のメンバー構成であり、作られつつある参照基準の内容である。メンバーは理論分野で主流となっている新古典派経済学系で固められ、参照基準としては、新古典派の経済学体系が採用される見通しである。すなわち、カリキュラム体系として、基礎科目(ミクロ経済学、マクロ経済学、統計学)、準基礎科目(財政学、金融論、国際経済学)、発展科目(公共経済学、産業組織論、労働経済学など)、補完的科目(経済学説史、経済史、制度経済学など)といった階層構造が想定されている。これにより、理論分野のみならず、応用分野でも新古典派が支配的になっていくことは間違いあるまい。また、理論体系になじまない歴史、制度、思想などにかかわる分野は周辺化され、場合によっては排除されていくであろう。この結果、就職を意識した若手研究者はますますマルクス経済学から離れ、この系統の研究者の再生産はきわめて困難になると予想される。新自由主義イデオロギーが大学教育、経済学教育を染め上げていく事態とみてよいであろう。
このような状況に対して、理論経済学会、進化経済学会等から意見書が提出され、有志による是正を求める全国教員署名も開始された。その主な論点は、新古典派経済学は、18世紀後半以来の経済学全体の歴史からみれば一部の学派にすぎず、すべてがこれに収斂されるものではない、現実世界をみれば、新古典派経済学は限界をもっており、それと違う立場の経済学を排除すべきでないという主張である。しかし、こうした異議申し立てが参照基準の修正をもたらす可能性は少ない。
知的資産としてのマルクス経済学
戦前、戦後、現在に至るまで、日本の社会科学研究の世界においてマルクス経済学は存在意義をもち、社会批判の役割を果たしてきた。この知的資産が消滅してしまうとすれば、日本の社会科学、ひいては日本社会の衰退にいきつくのではないだろうか。