日誌

これまで発行の「POLITICAL ECONOMY]、「グローカル通信」
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2025/07/03

POLITICAL ECONOMY第288号

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多極化世界への移行を促す米国第一主義
          横浜アクションリサーチ 金子 文夫 

 トランプ政権の米国第一主義によって国際秩序は大きく変容しつつある。西側主要国を結集したG7では米国と他の6カ国との間に亀裂が生まれる方、中国・ロシア陣営はグローバルサウスを糾合してBRICSを拡大している。米国第一主義は経済面では国際機構から米国を離脱させる一方、軍事面では国家間連携を維持しつつ、軍事負担の肩代わり、世界的軍拡を進めている。

グローバルサウスをBRICSに追いやるトランプ政権

 6月のG7カナナスキス・サミットは、ウクライナ支援、ロシア非難を打ち出したい6カ国と抵抗する米国との不一致が露呈し、しかもトランプは会議途中で帰国してしまい、首脳宣言を発出できなかった。分野別の共同声明が採択されたとはいえ、G7の結束力の低下が明白となった。

 G7に対抗する中ロは、グローバルサウスの有力国を集め、BRICSの拡大を推進している。設立当初のインド、ブラジルを含む4カ国から10カ国へと加盟国を増やし、さらに周辺にパートナー国を集めている。新たに参加するグローバルサウス諸国は、反米色を薄め、米中両極の中間に位置取りする思惑をもつが、7月のBRICSリオデジャネイロ・サミットでは、ウクライナのロシア市民攻撃を非難するロシア寄りの首脳宣言を採択した。

 トランプ政権はG7で孤立するとともに、関税政策の圧力でグローバルサウスをBRICS側に押しやっている。最近BRICSに加盟したインドネシアは、G7サミットに招待されたにもかかわらず、それに参加せず、同じ時期にロシアで開かれた国際経済会議(ロシアのダボス会議)に出席した。BRICSはドルに依存しない通貨・決済圏創出を目指しているためトランプはBRICSを敵視し、「反米政策」に同調する国には10%の追加関税を課すと威圧している。

 今後注目すべきはG20の動向だ。G7とBRICSの主要国が参加するG20サミットは、今年の議長国が南アフリカであるためBRICS寄りの運営がなされると予想されるが、来年の議長国は米国であり、どのような内容になるか見当もつかない。

米の国際経済機構離脱で自由貿易システム再編へ

 トランプ関税は経済グローバル化を推進してきたWTO体制の否定であり、自由貿易システムは再編を迫られている。米国抜きの国際システム構築を意図するEUは、すでに米国抜きで運営されてきたCPTPP(包括的・先進的環太平洋経済連携協定、12カ国)との連携を提起、合わせて南米、中東、アフリカ諸国との関係を強め、WTOに代わる国際貿易機関の創出を模索している。一方、CPTPP加盟の意向を表明している中国は、ASEAN、さらに中東との連携を強化すべく、5月に中国・ASEAN・GCC首脳会議を開いた。こうした連携の動きに米国がどう対応するかは明らかでなく、新たな国際経済秩序の定着には時間を要するだろう。

 米国第一主義は開発援助体制にも大きな影響を与えた。OECD開発援助委員会主導のODAシステムはSDGsを支える重要な役割を果たし、米国は長年ODAの最大供給国の地位にあったが、トランプ政権は米国際開発庁(USAID)を解体し、ODA予算を大幅に削減した。これによって世界で人道上の危機が高まり、今後5年間で1400万人以上の死者が出ると予測されている。また米国は6月末にセビリアで開催された第4回国連開発資金国際会議でも開発資金創出の積極策に抵抗したあげく、途中で会議から離脱した。

 国際課税ルールの策定でも米国の妨害が顕著だ。グローバル・デジタル経済に対応した国際課税制度を目指し、OECDとG20はBEPS(税源浸食と利益移転)プロジェクトを推進してきた。2021年、2本柱(デジタル課税、グローバル・ミニマム法人税)の新ルールが140カ国によって合意された。しかしデジタル課税の多国間条約は米国が拒否したため成立せず、各国は国ごとのデジタルサービス税導入に動くが、米国は報復関税の脅しをかけ阻止する構えだ。グローバル・ミニマム法人税は、国ごとに実施に移りつつあるが、米国はこれに対しても米国企業に課税した場合には報復すると宣言している。また、より包括的なルール形成を目指す国連の国際租税協力枠組条約交渉からも、米国は早々に離脱している。

米国主導で進む軍拡

 軍事機構では米国は1国主義をとらず、多国間連携を維持しながら米国の負担を各国に肩代わりさせる作戦に出ている。ウクライナ戦争を契機に軍拡に進むNATOは、6月の首脳会議で米国の要請を受け入れ、軍事費をGDP比5%(インフラ整備等1.5%を含む)に引き上げる目標に合意した。米国は戦力を欧州からアジアにシフトさせる方針であり、イギリスとフランスは核兵器の運用で連携をとる方向に踏み出した。

 アジア太平洋では、AUKUS(米英豪)をはじめ、米国を軸に日本、韓国、フィリピン、オーストラリア等との複数国間軍事連携の枠組みを保ち、対中国包囲網を強化しながら、そのなかで各国に軍事費の増大を迫っている。日本には軍事費のGDP比2%への引き上げを受け入れさせ、さらにそれ以上への引き上げの圧力をかけている。

 米国自体も2026会計年度に1兆ドルを上回る空前の予算(前年度比13%増)を計上し、対抗して中国もロシアも軍備を一段と増強、世界的に大軍拡の時代を迎えつつある。世界の軍事産業は肥大化し、各地に軍事紛争が激発することになるかもしれない。

 米国第一主義は多極化世界への移行を促しているが、その過程では国際秩序は不安定にならざるをえない。国連機能を強化し、公正な経済連携、軍縮の流れを作ることが求められる。


12:19
2025/06/01

POLITICAL ECONOMY第287号

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「自分の都合の良い時間に働きたい」は当たり前なのに
半人前の待遇で一人前に働く非正規労働者

                              街角ウォッチャー 金田 麗子

 日本の非正規労働者は、「主体性の罠にはまり」半人前の待遇で一人前のように働くと、『<一人前>と戦後社会』(禹宗杬・沼尻晃伸著、岩波書店)は指摘する。本書は戦前、戦後から現在までを、「一人前」に扱われたい、をキーワードに主に雇用政策を通じて分析している。

 私の息子は30代後半だが、大学入学と同時に飲食小売大手チェーン店にアルバイト就労し、そのまま現在まで20年近い勤続年数で働いている。20年選手の彼は、製造販売から日々の入出金、売り上げ管理、注文在庫管理など事務作業もすべて一人で行っていて、残業も多い。連合系の職場の労組に加入していて、無期雇用に転換。社会保険も完備されているが、収入は残業代も入れて月平均22万円くらい。ボーナスもない。典型的に半人前の待遇で一人前に働く非正規労働者である。

 彼の職場は、正社員はエリアマネージャーだけ。他は非正規社員で構成されている。通年人手不足で、彼はエリアの他店舗に応援に行くこともあった。同業他社の中には、非正規労働者の確保が出来ず、開店時間の縮小や廃業に追い込まれる店舗さえある。

働かざるを得ない現実

 「主体性の罠」という個人の意識で働いているというよりも、既に「働かざるを得なくなっている」現場が実態なのではないか。かつて私自身中規模書店チェーン店のパートで働き、1978年にパート労組を立ち上げ20年活動した。今書店は存亡の危機にあるが、当時から書店は利益率が低く6割を非正規労働者が占めている実態だった。

 現在私は、精神障がい者のグループホームで非正規職員として働いているが、昨年来、職員や同僚が病気や家族の介護などで休職が続き、一時期70才の私と80才の同僚2人でシフトを埋めていたこともある。経営母体はNPOで、団体の責任者も駆けつけるが、いかんせん実務は我々が行わざるを得ない。求人広告を出しても来ないし来ても断られる。「主体性の罠」にはまっているというより、利用者がいるかぎり、誰かが働かざるを得ない職種なのである。

 かつては非正規労働者といえば、主婦パートというイメージで語られていたが、現在は40代~50代の氷河期就職世代、高齢者の再就職、さらに15~24才の若年層まで広がっている。内閣府の「高齢社会白書」(2024年版)によると、2023年65歳以上の就業者数は20年連続上昇している。労働力人口総数に占める65才以上の割合は13.4%。65才以上の非正規率は76.8%である。

 氷河期就職世代やその下の世代までが非正規化している。15~24才のうち非正規の比率は22年で50.4%という高水準。学生アルバイトが含まれているのを勘案しても、相当数が非正規として職業生活をスタートしている状況だ。

「リーマン震災世代」も不安定で低年収

 『就職氷河期世代』(近藤絢子、中央公論社)によると、就職氷河期世代とは、1993年~2004年に学校を卒業した世代で、バブル後の長期不況の影響で企業は、雇用調整として新規採用者の減少と非正規雇用の増加で対応した。その結果、就職氷河期世代が生じたという。就職氷河期世代、特に後期は上の世代に比べて長期に渡って雇用が不安定で年収も低い。

 更に氷河期よりも下の世代は、景気回復期に卒業した世代であるのにもかかわらず、雇用が不安定で年収が低いままであることが、データをもとに示されている。

 ポスト氷河期就職世代(05年~09年卒)は、氷河期が終わり、新卒市場が売り手市場になったと言われていた時期に就職した世代、リーマン震災世代(10年~13年卒)は、リーマンショックや東日本大震災の影響を受けた時期に卒業した世代、と言われている。

 17年の「就業構造基本調査」(総務省)によると、各世代の初職の雇用形態のうち非正規の割合はバブル世代は7.1%、氷河期前期世代は10.6%、後期世代は16.7%、ポスト氷河期世代は16.7%、リーマン震災世代は18.3%である。氷河期以降の世代も卒業後すぐに正規雇用の仕事に就く人は限られていたのである。

非正規を「望む」、「望まぬ」という線引きはおかしい

 冒頭の『<一人前>と戦後社会』では、いわゆる非正規を「望む」、「望まぬ」という線引きで対応する問題点を指摘している。というのは非正規雇用を選んだ理由として、男女問わず「自分の都合の良い時間に働きたいから」が最も多く、「正規の職員、従業員の仕事がないから」を選択している人は1割程度。政府はこの層だけを「不本意の非正規」とみなし、対策を行うとしている
からだ。

 そもそも「自分の都合の良い時間に働きたい」という理由で選んだ労働の価値が、通常の労働に比べて見劣りする理由はない。ヨーロッパの多くの国では、パートタイマーで働く価値が、フルタイムで働く人より下がることはなく時間当たりの価値は変わらないと見ている。

 これに対し日本では、「パートで働く」あるいは「非正規で働く」、雇用形態が違うだけで、「半人前」の扱いをされている。時間あたりの価値が大きく下がるわけではない。個人の意思とはかかわりないのである。

 そもそも働く人が、「自分の都合の良い時間に働きたい」と思うのは、ごく当たり前。にもかかわらずなぜ非正規を選ぶのだろうか。それは日本の正社員・正規雇用者は、「長時間働くもの」だから、非正規は、正規に課せられている「長時間労働」ゆえに、「不本意」で選択しているのだ。

 同書では事例として、雇用区分の転換時の試験を廃止、三段階の社員区分をやめ「社員」に統一。アルバイトを除き無期雇用、月給、賞与ありの待遇にした金融保険業界の会社などが紹介されている。

 家事、子育て、介護のみならず健康維持のための時間、このすべてのケアのための時間が保障されない「正規雇用」の変革と、雇用の安定、低賃金の底上げこそが必要である。非正規の不安定雇用、低賃金は年金に影響を与え、大量の無年金、低年金の高齢者が生じる。目の前の参議院選挙でも中心的な課題である。


11:27
2025/05/14

POLITICAL ECONOMY第286号

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株主総会のシーズンに考える
金儲けの小道具と化したCGコードは考え方から見直すべき

                              金融取引法研究者 笠原 一郎

 6月は、3月決算期が多い日本の上場会社(東証プライム市場上場会社では約7割とされる)では株主総会が開催される月、株主総会のシーズンである。新聞(1) は、物言う株主(いわゆるアクティビスト)の株主提案が過去最多50社となり、資本効率や親子上場などにつき経営改革促す市場圧力となっていると報じている。

 今期、こうした株主提案を受けている会社には、日本を代表するエクセレント企業とも呼ばれた会社の名前も並ぶ。世界の自動車マーケット動向からの乗り遅れと経営ガバナンスの混乱を問われている日産自動車(日産)、元タレントの不祥事事案を契機にその後の対応の稚拙さとその企業体質への強い批判にさらされたフジメディアHD(フジテレビ)、また、小売り経営の効率性を問われスーパー部門の切り離しを求められたセブン&アイHD(7-Eleven)、また、トヨタ自動車(トヨタ)は子会社上場の解消そしてアクティビストから度重なる株主からの要求がなされている祖業の豊田自動織機に対する完全子会社化案を発表している。

 こうした株主からの要請・要求は、確かに企業に対して経営ガバナンスの適正化を求めるものと見えるものもある。しかしながら、一部のアクティビストによるフジMDHに対する取締役選任の提案(元案)では、放送免許親会社における取締役の放送法適格から外れたものを出してくるなど、彼らが真摯に企業に対してガバナンス改革を求めているのか、疑義を生じかねないレベルのものもある。

資本の効率化という名の金儲け最優先の主張

 そして、多くのアクティビストたちが企業に対して求める合言葉は、“企業価値の向上”であり、“資本コストに見合う経営を促す”というものである。彼らが言うところの企業価値向上とは株式時価総額の増大、すなわち、株価を上げろというものであり、また、資本コストに見合う経営とは彼らが期待する投資利回り以上のものを得るための資本効率化を求めるものである。いわば、企業に対して自分は“これくらい利回りを期待しているので、それに見合う儲けを出せ”と言っているものとも言えよう。こうした企業への要請は、ここ最近、特に大きな声となってきている。なぜ、何処から、資本の効率化という名の目先の金儲け最優先の主張を堂々と要求するようになってきたのであろうか。

 こうした声の背景の一つには、コーポレートガバナンスコード(CGコード)(2) の制定があると考える。このCGコードは金融庁と東証(現JPX子会社)が中心となり作られたものであるが、そもそもの生い立ちは、2013年6月に、日本の中長期的な経済再生を目指すとして閣議決定(第二次安倍内閣)された「日本再興戦略」に端を発し、経済産業省からは通称「伊藤レポート」(3) が公表された。このレポートをベースとして「コーポレートガバナンスコードの策定に関する有識者会議」での議論を経て、策定されたものとされる。

 まず、CGコード策定のベースとなった「伊藤レポート」の議論における“企業価値”について見てみる。そこには、企業が生み出す価値をどのように考えるかとして、「一般的には株式時価総額や企業が将来的に生み出すキャッシュフロー等に焦点を当て、中長期的には資本コストを上回る利益を生む企業と述べる。一方で、ステークホルダーにとっての価値、株主価値、顧客価値、従業員価値…社会コミュニティ価値の総和から構成される」と述べている。

 こうした議論を受けてCGコードでは、1.株主の権利の確保、2.ステークホルダーとの協働、3.情報開示と透明性の確保、4.取締役会の責務、5.株主との対話 を基本原則としてあげている。一見すると、至極“当たり前”の項目が並ぶ。しかしながら、この基本原則のうちの1.と5.は、“株主と企業の関係”について、企業に対しては株主の権利を確保したうえでよく話を聞け、そのベースは短期的な“資本コストを上回る利益”を求める株主第一主義を体現するための政府・取引所からの要求である。日本の商いの心である「三方よし」の精神、すなわち企業の社会コミュニティ価値=企業の社会的責任については、ステークホルダーとの協働との名目のもと矮小化し、SDGsに置き換えるという化粧が施された議論に仕立て上げられた感がある。

株主第一主義を前面に押し出したCGコード

 このような株主第一主義を前面に押し出したCGコードは、その策定から10年が経過した。果たして日本は再興されたであろうか。目先の金儲け主義の小道具としての“お墨付き”が与えられた株主たちが、大手を振って跋扈してきているようにしか見えないのは、私だけだろうか。株主第一主義のCGコードは、その考え方から見直すべきであろう。日本の中長期的な再興を目指すのであれば、まずは企業経営・取締役会への関与を求める株主に対する社会的な責任、すなわち株主にも情報の透明性を、そして株主にもまた社会に対する説明の責任を求めるという、ステークホルダー全体への責務を持たせることから考えるべきではないだろうか。
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(1) 日本経済新聞2025年6月7日朝刊より。なお、産経新聞2025年6月7日朝刊は、三菱UFJ信託銀行調べとして、株主提案を受けた企業は114社と報じている。また、読売新聞2025年6月10日朝刊は、約100社と伝えている。

(2) 日本取引所グループ(JPX)HP(https://www.jpx.co.jp/equities/listing/cg/)参照。
(3) 「伊藤レポート」とは、伊藤邦雄一橋大学教授を座長に取りまとめられた「持続的成長への競争力とインセンテイブ」(2015)報告書である。


21:23
2025/04/25

POLITICAL ECONOMY第285号

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DEI(多様性、公平性、包摂性)ばかりにかまけるなー問題は経済なのだ 
                                                                        経済アナリスト 柏木 勉

 トランプが矢つぎ早に打ち出した諸々の政策は世界に大きな衝撃と混乱を生んでいる。一方、これに対する非難、反発、怒り、不満の大合唱も引き起こされている。この状況をどう見るべきか、対応の基本方向をどう考えるか、それは世界が重大な分岐点にさしかかっているだけに極めて重要である。ここでは多くを述べられないが、まずトランプへの非難、反発、怒りの大合唱について触れたい。そこでこれら非難、反発、怒りを見たとき、それらはもっともなものであると一応は云える。だが一面的で不十分である。これらの非難、反発は、「自由貿易の利益・多国間主義の無視だ、人種差別主義・人権無視だ、反民主主義だ、強欲だ」と、もっぱら上から目線でトランプ政策の愚かさを指弾する侮蔑的なものでしかない。

 そこに欠けているのは、なぜトランプ現象という大きなうねりと運動が生まれたのか、米国を分断するほどの大きな力となっているのか、欧州でも同様なうねりと運動が沸き上がっているのはなぜかを顧みないということだ。これを見なければ今後の方向を的確に見出すことはできない。

歪んだ形での新自由主義への反乱・暴発

 トランプ現象は本質的には新自由主義に対する民衆の反乱・暴発である。それはゆがんでねじ曲がっているが、その根底には新自由主義が30-40年にわたって拡大させてきたグローバル化と経済的格差拡大への反発、放置された中・低所得階層の怒りがある。新自由主義によって欧米各国の民衆とりわけ製造業労働者・中間層が底辺に追いやられ、低所得層は放置され(ラストベルトが象徴だが、ドイツでは旧東独地域は停滞に陥り、住民は2級市民として蔑視されてきた)、地域のコミュニティーは崩壊していった。

 これに対する反乱・暴発がことの本質であり、だから経済問題なのだ。新自由主義に転落したビル・クリントンをもじって言えば、全く逆の立場から「経済こそが重要なのだ、愚か者!」
米民主党、欧州社民の新自由主義への転落

 新自由主義は欧米日の支配層によっておしすすめられてきた。しかし大きな転回点は米国民主党と欧州社民の路線転換だった。ビル・クリントン、ブレア、シュレーダー政権は一様に新自由主義に転落し、親ビジネスに大きく傾いた。その路線は労働側への配慮をちらつかせながらの、いわば多少薄めた新自由主義であり、それは小さな政府=緊縮財政(福祉予算削減)、民営化・規制緩和、グローバル化推進という基本的な点で何らかわるものではなかった。そして、それは基本的に所得再分配軽視への移行であり、IT化・サービス化への構造転換にともなう労働者層への対応軽視であった。

 米国民主党でいえば、彼らは所得格差が拡大する中で勝ち組のエリート層にシフトして、その支持基盤は所得の上層クラスに位置するようになった。製造業労働者とサラリーマン(高卒)=低・中所得層を見捨て、高等教育(大学)=高所得を得る人口全体では少数の層にシフトした。かつ、彼らが主張するDEI(多様性、公平性、包摂性)はグローバル化と親和的であった。例えば人種の多様性を考えればすぐわかるだろう。このためDEIはグローバル化と結合して捉えられ、グローバル化に苦しめられる製造業中間層・低所得層のいだく憎悪を深めることになった。民主党支持者の主流は、いわゆるアイデンティティ政治に熱中したが、それは多様性を強調する一方で異なる見解へは不寛容で上から見下すものであった。なおかつ、最も重要な経済的分配是正への対応は脇におしやったままであった。なぜなら、彼らリベラル・エリート層は勝ち組であり高所得層であるから、所得分配への考慮は希薄だったからである(かつて、この意識を代表したのがヒラリー・あクリントンであり、DEIに反感をいだく周辺に追いやられた製造業中間層・低所得層を「惨めな人々」と呼んだ)。

 2016年のトランプ勝利をふまえて、バイデン政権は若干の路線修正で労組活性化の姿勢を見せ、インフラ投資雇用法や製造業保護にむけた中国への関税強化など労働側へ配慮した政策をいくつか打ち出した。だが効果は薄く、何よりもう遅かった。インフレが進んで一般民衆の不満がたかまり、そのため労組寄りの姿勢はかすんでしまったのである。

 ところで、ここでMAGA派を見れば一枚岩ではないことは明白であり、一方は上述した「忘れ去られてきた人々」=底辺に追いやられた製造業労働者層、中・低所得者層であり、他方は支配的金融業界ならびに裕福なテック企業経営者に大別される。トランプは両者の間に立って双方を操っている。後者はこれまで新自由主義によって莫大な富を得てきたし、トランプの減税と規制緩和に期待している。基本
的にトランプは彼らに敵対することはない。なによりもトランプは成り上がった支配者であり、労働者層の味方ではない。トランプは両者を操りつつ共通の敵=リベラルなエリート・エスタブリッシュメントと闘うという構図(図を参照。出所:JBPress「【米大統領選】机上の平等主義にうんざり、右傾化するシリコンバレー」 2024.9.10)を維持し、かつ中国との覇権争いを繰り広げ「米国を再び偉大に」というナショナリズム=迷妄を拡散していくだろう。

分配是正とDEI推進の同時追求が課題

 以上から左派が採るべき道は、分配是正とDEI推進の双方を同時に追求することだ。両者は補完的だが、最優先は分配是正と産業構造転換にともなう雇用対策の強化=「経済」だ。これを前提にしてこそDEIへの理解も進む。欧州についても同じだ。「忘れ去られてきた人々」を左翼の方こそがすくい取り、結集しなくてはならない。加えてナショナリズムの無化が不可欠だ。中国共産党も一党独裁体制維持のため「中華民族の偉大な復興」というナショナリズム=愚かな迷妄に陥っている。ナショナリズムは各国の「現実の支配・被支配」を忘却させる阿片である。この阿片こそが依然として世界の問題である。


10:00
2025/04/14

POLITICAL ECONOMY第284号

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「キャリアは財産」の時代における職業人生と人材育成の再構築

                    労働調査協議会客員調査研究員 白石利政

 時代にあった競争力のある製品と高い生産性の維持、とりわけ、それらを支える人材の確保と育成が急務となっている。人生100年時代とも重なって、「職業キャリア」(以下キャリアと略)が注目されている。

 昨今のキャリアをめぐる状況について、法学者の諏訪康雄氏は、戦後から高度成長期の組織内キャリアは企業や組織の先行き不透明が進むなか行き詰っており「雇用の流動化や多様化が拍車をかけ、キャリア問題が顕在化」、「『職務は財産』(Job is property)から『雇用は財産』(employment is property)、そして現在は『キャリアは財産』(career is property)という標語が生まれ、この現実化に向けての政策や法整備の声」が広がりつつある、と述べている(「雇用政策とキャリア権-キャリア法学への模索」 弘文堂 2017年)。

キャリアのタイプと形成に求められる柔軟性

 キャリアにはどのようなタイプがあるのだろうか。アメリカの組織心理学者のエドガー・シャインは、アンカー(碇)を下ろす「無理にでも選択を迫られた場合、どうしても捨て去ることができないひとつの拠り所」から、「専門・職能別能力」、「全般管理能力(組織の中で責任ある役割を担うこと)」、「自律・独立(自分のペースやスタイルで仕事を進めること)」、「保障・安定(安定した仕事や報酬を得ること)」、「起業家的創造性」、「奉仕・社会貢献(社会を良くしたり他人に奉仕すること)」、「純粋な挑戦(解決困難な問題に挑戦すること)」、「生活様式(個人的な欲求と、家族と、仕事とのバランスを調整すること)」の8つのタイプがあると提唱している(「キャリア・アンカー」 白桃書房、2003年 原著1990年)。

 とはいえ、雇用労働者のキャリア形成は一様ではない。同じキャリアアンカーのなかでも同じ職が長期にかつ安定的に継続するとは限らないし、キャリアアンカーの変更を余儀なくされる事態もないとはいえない。

 1970年代、ヒット商品を飛ばし続けていた日本の電機産業の技術者は商品寿命の短さからくる悩みを抱えていた。電機労連(現電機連合)は傘下組合の技術者を集めて業界横断で交流と研修を行う「技術者フォーラム」を開催していた。そこで話題になることのひとつがキャリア問題で目指すべきは、基礎をもとに深く突き進むT(ティー)字型か複数の専門をもつπ(パイ)字型か、だった。産業構造がサービス化やDXへの対応を迫られ、就業構造の変化も続き、雇用労働者はそれに合わせるしかない。

 先進国での長寿化もキャリア形成に大きな影響を与える。雇用労働者の就労年限が勤め先の「寿命」を上回る時代が来ている。経済学者で英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスや米コロンビア大学の学長を務めたネマト(ミノーシュ)・シャフィクは「職業人生が長くなったからスキルの頻繁な再取得が必要なだけではなく、まったく異なるキャリアの構築が必要になる」「私はしばしば学生らに『この先のキャリアを、梯子を上るようなものではなく、木を登るようなものだと考えなさい』と言っている。木を登るには、次の高さに上がるときにいったん左右に足を踏み出さなければならないことがよくある。そして、そうした回り道をすることで、新しくて興味深い眺望が開けたりする」と(「21世紀の社会契約」東洋経済新報社2022年)。

日本における学び・学び直しの現状と課題

 このキャリア形成にはOJTとOFF-JTとがあり、いま日本で求められている職種転換や学び・学び直しには後者が向いている。ところが、日本のOFF-JTにかける費用は欧米先進国に比べ明らかに低く、必要性が高まっているにもかかわらずこの間減少傾向にある(図参照)。

 2022年10月、当時の岸田首相は臨時国会での所信表明演説で成長産業への労働移動を促す学び・学び直し支援に5年で1兆円を投じる計画を打ち出した。25年10月からは働く人々が安心して教育訓練に専念できる環境を整備することを目的とした「教育訓練休暇給付金」制度がスタートする。

 雇用労働者の教育・研修の実情の一端は、独立行政法人労働政策研究・研修機構(JILPT)が24年10~11月に企業で働く1万人を対象に実施したインターネット調査(正社員比率は73.7%)で知ることができる。2023年度に仕事に関する自己啓発を行った人は14.9%。自己啓発を実施した理由(M.A)のトップは「現在の仕事に必要な知識・能力を身につけるため」(62.1%)で、ついで「将来の仕事やキャリアアップに備えて」(43.9%)、「資格取得のため」(23.5%)、「昇進・昇格に備えて」(18.8%)などとなっている。一方、自己啓発を行わなかった人(85.1%)を対象にした理由(M.A)では、「仕事が忙しくて時間が取れない」が32.8%で最も高く、以下「自己啓発を行っても会社で評価されない」(26.1%)、「費用を負担する余裕がない」(21.5%)、「スキルアップを求められていない」(17.5%)などとなっている。

 厚生労働省のHPでは「職場における学び・学び直し促進ガイドライン(令和4年6月策定)」がアップされている。労使が取り組むべき事項の「推奨される取組例」には「非正規雇用労働者や、障害者、外国人、育児・介護中などの多様な事情・背景を持つ労働者が、教育訓練プログラムの提供や学び・学び直しを促進するための各種の支援の対象から漏れることのないようにするなど、学び・学び直しの促進に関して労働組合がある企業においては労働組合から、労働組合がない企業においては労働者から、意見を聞く機会を確保する」との指摘がある。

 キャリアが個人の「財産」として重視される現代において、多様な働き方と学び・学び直しの機会を支える環境整備が不可欠である。働く人々が自律的にキャリアを形成できるよう、企業・社会・政策が一体となった支援が求められている。


14:40
2025/03/29

POLITICAL ECONOMY第283号

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トランプ関税を支える「改革保守派」
             経済ジャーナリスト 蜂谷 隆

 今年3月、アメリカの保守派の若手論客オレン・キャスが来日した。彼はトランプ政権の中で過激な保護貿易主義者であるJ・D・バンス副大統領や貿易・製造業担当上級顧問ピーター・ナバロを政権外で支えている「改革保守派」(Reformocon)に属する。日本での講演はyoutubeで公開されている。また朝日新聞(4月3日付け)ではインタビューが掲載された。オレン・キャスを日本に招いたのはアメリカ保守思想史研究者である会田弘継氏である。同氏の分析などを手がかりに「改革保守派」は何を目指し、何を変えようとしているのかを探ってみた。
 
 トランプ政権を支えているのは、三つのグループといわれている。ひとつは「改革保守派」である。二つ目のグループはスコット・ベッセント財務長官ら金融系。三つ目のグループはイーロン・マスクに代表されるテクノ・リバタリアン(ITの自由至上主義者)とされる。金融業界や情報産業は長いこと民主党を支えていたのだが、「流れは変わった」として、トランプ政権を支える側に回った。

 トランプ関税は、思い切ってやればやるほど自国経済が傷む。目標とする製造業の復活もインフレでコストが高い、人件費も高い、技能労働者がいない等を考えると労働集約型は難しい、半導体、自動車など先端型の一部に限られる。なぜこうした無茶な政策をやろうとするのだろうか。
 
労働者とコミュニティ重視の「改革保守」

 ピーター・ナバロの後ろ盾は米国経済諮問委員会(CEA)委員長であるスティーブン・ミランといわれている。彼がヘッジファンド在籍時の2024年11月に発表した論文 “A User’s Guide to Restructuring the Global Trading System”が注目されている。というのはこの論文がトランプの関税政策に大きな影響を与えていると見られるからだ。ミラン氏はこの論文で、米ドルの過大評価が米国の製造業の空洞化を招き、貿易赤字や地域経済の衰退を招いたと指摘、貿易・通貨政策の抜本的な見直しとプラザ合意のような協調的な通貨調整(ドル高是正)を行う政策を提案している。
 
 図は同論文に掲載されているもので、アメリカの製造業の労働者数が約1300万人で、雇用労働者に対する比率は8%に過ぎないことを示している。
 
 「プラザ合意のようにやろう」ということで、トランプ政権では「プラザ合意2.0」とかトランプ米大統領の別荘名をとって「マールアラーゴ合意」と呼ばれている。

 ミランは39歳でミレミアム世代に属する。9.11からアフガン戦争を経て08年にはリーマン・ショックで経済の落ち込みを経験している。グローバル貿易の恩恵をフルに受けた中国の急成長とアメリカの産業の空洞化を見ている。彼の生きた世界すなわち世代意識が思想形成に影響を及ぼしているようだ。読売新聞(4月17日付け)でインタビュー記事が掲載されている。
 
 冒頭に紹介したオレン・キャスは42歳である。彼はバンス副大統領(40歳)や対中強硬派マルコ・ルビオ国務長官(53歳)らが上院議員の時代(つまり約10年前)から政策助言を行ってきた。20年に保守系シンクタンク「アメリカン・コンパス」を創設している。ミランとキャスは同じ世代で、おそらくミランはキャスの影響を受けているのだろう。

 キャスは、18年に“The Once and Future Worker”という本を出している。会田弘継氏によると、この本のタイトルはアーサー王を題材にしたファンタジー小説「The Once and Future King」のタイトルをもじったもので、「労働者が王様」だとオレン・キャスは言っているという。労働者ふつうの人が主人公になる社会を描いているというのだ。

 キャスが『フォーリンアフェアーズ』21年N0.5号に掲載している「新保守主義はなぜ必要か-アメリカ政治再生の鍵を握る保守主義の再編」という論文を読むと、頻繁に「コミュニティ」という言葉で出てくる。彼の考え方の根底にあるのは、グローバル経済で壊された地域社会を再生し、ここ基盤に労働者の生活を立て直そうということのようだ。

 アメリカ社会における「コミュニティ」とは何か。この問題を探るだけでも大きなテーマなのだが、筆者はテレビドラマ「大草原の小さな家」を思い浮かべてみた。「大草原の小さな家」の中では、家族愛、労働、隣人愛だけでなく、自然との調和や自給自足の生活が描かれている。アメリカの保守的な価値観が強く表れた作品とされる。「大草原の小さな家」の世界に戻ろうということなのかもしれない。

中道も「コミュニティ」を強調しているのだが

 「コミュニティ」は、ハーバード大学教授で日本でも人気のあるサンデル教授も強調している。また、中道的な経済学者で市場原理主義には批判的な立場をとっているラグラム・ラジャン(インドの経済学者でシカゴ大学教授)も、『第三の支柱――コミュニティ再生の経済学』(みすず書房)の中で、市場・国家だけでなくコミュニティの三本の柱で、市場経済は成り立っていると主張、市場経済の行き過ぎの歯止め役としてコミュニティを位置づけている。「歯止め役」という点では「改革保守派」と共通するものがあるようにも見える。
 
 前出の会田弘継氏は、「それでもなぜトランプは支持されるのか-アメリカ地殻変動の思想史」(東洋経済新報社)を24年7月に出版している。同書を読むとアメリカの保守思想の流れが分かる。金融やITによる行き過ぎた新自由主義やグローバル経済化の「歯止め役」が期待された民主党が裏切り、トランプが登場したという脈絡で書かれている。トロツキーやグラムシも登場する同書は一読の価値があると思う。


18:18
2025/03/16

POLITICAL ECONOMY第282号

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軍国主義下のキリスト教教育の苦悩
              元東海大学教授 小野 豊和

 昭和6年の満州事変の後、メディアを通じた日本軍の奮戦と勝利を賞賛する報道により軍国主義の風潮が高まる一方でキリスト教教育への攻撃が顕在化する。昭和7年5月5日に「上智大学靖国神社参拝拒否事件」が起こった。配属将校が学生たちを引率して満州事変の「英霊」たちを祀って間もない靖国神社を訪れた際、数人のカトリック信者の学生たちが参加しなかったことに端を発する。10月になって新聞による上智大学攻撃が始まり、12月に配属将校が引き上げた。当時、配属将校の存在が大学の社会的地位保護に欠かせなかったため、配属将校の引き上げ報道を知ると多数の学生が退学、入学希望者の激減により大学運営の危機となった。この問題の重大性に鑑み靖国神社参拝を受け入れることで、翌昭和8年12月に配属将校が上智大学に戻り、事件は終結した。

 事件の背景には、教会(カトリック及びプロテスタント)と日本政府の神社参拝を巡る対立があった。日本政府は「神社は宗教ではない。国民道徳育成の要」と位置付け、日本人であれば誰でも神社を参拝し、教育現場においても児童・生徒の神社参拝が通例となっていた。一方、カトリック教会は「神社は宗教である」との解釈から、十戒の第一条「我は主なり、我を唯一の天主として礼拝すべし」を守ることから神社参拝を禁止していた。

 しかし、上智大学事件後、神社参拝における「敬礼」について文部省と協議し「神社参拝は愛国的意義で宗教的意味はない」という回答を引き出し「学生生徒児童の神社参拝」容認に転換した。さらに「神社は宗教ではない」と明言する日本政府が行政上他の宗教と異なる扱いしていることから昭和11年5月、バチカンの布教聖省(現・福音宣教省)は「祖国に対する信者の務め」という指針を出した。この指針は「神社参拝は愛国心を表現する単なる社会的意味しかない」とし、信者たちに神社参拝を許した。これにより教会およびミッションスクールにとって靖国神社だけでなく日本全国の神社参拝についての問題は解決した。

熊本でもミッションスクールに対する国家干渉

 熊本では、戦時下に於いてキリスト教教育を建学の精神とするプロテスタントを含めたミッションスクールに対する国家干渉を避けられなくなり、校名変更や校長更迭の動きが出てきた。九州学院(明治44年設立)、九州女学院(昭和元年設立)は昭和18年4月の新学期から昭和20年8月の敗戦までの期間、九州学院は九州中学校、九州女学院は清水高等女学院(現九州ルーテル学院)へと校名を変更せざるを得なかった。明治32年、英国及び他の列国との条約改正により、外国人が日本で学校を開設する事例が考慮され、その監督の必要性から文部省が私立学校令を制定し、同時に「一般の教育をして宗教の外に特立せしむは学政上再必要とす」という我が国の宗教教育史上有名な文部省訓令第12号を公布した。教育宗教分離に関する基本方針を明確にし、これによって官公立学校では一切の宗教教育は禁止され、私立学校で宗教教育を実施し得るのは便宜上各種学校扱いとされていた。

 ただ両学院とも上級学校進学に関して公立中学校、高等女学校と同一扱いを受けていた。両学院は建学の精神にキリスト教主義を唱っていたが、戦争中は建学の精神に矛盾する国家干渉を避けることはできなかった。例えば昭和8年10月に「教育勅語」謄本が公布されると、九州学院は「教育への締め付け干渉を感ずる稲富(院長)が今後のキリスト教主義教育への不安を強く感ずるのはこの時である」(『九州学院70年史』)といい、九州女学院は、創立当初の入学案内に「基督教の主義に基き女子に須要なる高等普通教育を施し堅実善良なる婦人を要請するを目的とす」としていたが、昭和2年のそれには「教育勅語の本旨を遵法し基督教の主義に基き…」(『九州女学院の50年』)と記し、天皇制教育のキリスト教学校に対する教育内容への介入は公然たるものであった。

涙を飲んで「中等学校令」の適用を選択

 ガダルカナル島での日本軍撤退、アッツ島守備隊全滅など、日本軍の戦局が悪化すると、昭和18年1月、政府は勅令36号「中等学校令」を公布した。「国民学校の教育を基礎とし、更に之を進展拡充し、教育の本義に則り皇国の道を修めしめ、各其の分を尽くして皇運を補翼し奉るべき中堅有為の国民錬成を完う」すべく制定されたものであると定義し、それまでの中学校令、高等女学校令、実業学校令を統合し一本化した。同時に「皇国の道に則りて初等普通教育を施し国民の基礎的錬成を以て目的とす」という国民学校教育目的を中等教育にも延長運用し、中等教育段階での法的統一を図る目的で制定されたのが「中等学校令」であった。キリスト教主義学校として各種学校の適用を受けた両学院であったが、各種学校のままでいけば学校存在の不安定性が持続されるし、「中等学校令」の適用を受ければミッションスクールとしての機能を希薄にせざるを得ない状況にあったが、ここにおいて両学院とも「中等学校令」の適用を選択した。「名を捨てて実を残さざるを得なかった」と言うべきかもしれない。

 明治33年にメール・ボルジアが熊本玫瑰女学校を創立。大正9年に熊本中央実科高等女学校を設立、大正11年には上林高等女学校と改称、昭和7年には上林女子商業学校を開校するがキリスト教教育の危機に瀕した。昭和9年1月5日、上林高等女学校・女子商業学校の父兄有志が臨時に会合を開き「①アンデレア校長は我国民教育の基本を破壊するものと認む、我等は誓って同校長を排除す。②我校現下の教育は前柴田校長代理の手腕に持つもの洵に多し、速やかに再び迎えて父兄の不安を除かんことを期す。③右の希望を達するまで断然生徒の昇校を見合わす」という決議文を学校に提出した。これに対し学校側は1月7日に「アンデレア校長は国民教育の精神に反するが如き行為ありたることなく、教育勅語精神に則り、国民精神の作興に努め、例えば神社参拝の如きは本校は率先して之を行い、父兄会の決議の如き事実断じてなし」「校長代理の再任はすでに後任人事が決定しているので覆ることは絶対ない」との声明書を発表し反論した。同窓会も「母校の教育方針の正しさを信じて居るが故に母校を非難するが如き行動に
出でたることなきを声明す」と学校側に同調した。

 1月8日は新学期始業式であったが登校学生が減少、1月9日には父兄側がアンデレア校長の排斥、前校長の復帰、カトリック教に基づく教育方針の改革を叫び対立が続いた。ところが同日遅くなって熊本市内の私立高等女学校(大江、尚絅、中央)の校長が事態収拾を表明、1月10日に三校長が父兄側代表と折衝し妥協案が成立した。「紛争突発以来不安の空気に包まれた学園も愈々博愛の魂が甦って平和の日が訪れそうである」(『九州新聞』昭和9年1月11日)と新聞が報じた。苦難の道を歩んだが、昭和22年の学制改革により熊本信愛女学院と改称、新制中学校が発足した。

【参考文献】『近代熊本における国家と教育』(上河一之、熊本出
版文化会館、2016)『カトリック新聞』(2025年2月16日)


16:43
2025/02/27

POLITICAL ECONOMY第281号

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先進国でトップのエンゲル係数
          NPO現代の理論・社会フォーラム運営委員 平田 芳年

 総務省が2月7日に発表した2024年の家計調査で2人以上の世帯が使ったお金のうち食費の割合を示す「エンゲル係数」は28.3%を記録、1981年(28.8%)以来、43年ぶりの高水準となった。このニュースを聞いて、「エッ」と思った人が多かったのではないか。1970年代の高度成長期を経て、世界有数の経済大国に成長した日本で貧しい国の指標とされるエンゲル係数の高さが話題になるとは驚きだ。

30%を超える低所得者層

 同調査によると、24年の2人以上世帯の消費支出は1世帯当たり1ヶ月平均、30万243円で前年に比べ実質で1.1%減少。消費支出の内訳を「交通・通信」、「光熱・水道」、「教養娯楽」などの10大費目別にみると、「食料」は、89,936円(贈答品を含む)で、名目3.9%の増加、実質0.4%の減少となり、「エンゲル係数」は前年の27.8%から0.5ポイント上昇して28%台に載せた。「野菜・海藻」、「果物」などが実質減少となった一方、「外食」、「穀類」などが実質増加となっている。

 日本のエンゲル係数の推移を見ると、1970-80年代以降、国民所得の高まりと平行して低下傾向が続き、2000年代初めまで20-21%の水準で安定していたが、2015年から23%台に上昇、コロナ禍の2020-21年に26%前後に高まり、今回28%を超えた。統計手法が異なり、食文化の違いがあるので先進国との比較は参考数字にとどまるが、22-23年水準で見るとイタリア25.7%、フランス24.5%、イギリス22.3%、ドイツ18.9%、米16.4%など。各国ともコロナ禍で巣ごもり消費が堅調だったためエンゲル係数が上昇したが、その後低下傾向を示している。しかし、日本はこうした傾向とは逆に上昇ピッチを上げ、先進国でトップ。

 では日本だけが貧しくなっているのか?
  識者などの分析によると、 数値の上昇は食料品価格の高騰、収入の低迷、食生活の変化が大きな要因だという。消費者物価指数でみると食料(生鮮食品を除く)は24年はじめごろから連続して上昇率が高まっており、米類価格の高い伸び、日配品・外食の値上げ、円安の影響などが家計の食費支出の上昇を招いたことは確かだ。

 一方、賃上げは物価高騰に追い付いていないようだ。物価変動の影響を差し引いた1人当たりの実質賃金は24年に0.2%減と3年連続でマイナス。年金生活者の実質手取りもマクロ経済スライドの導入で、年金の給付水準が緩やかな上昇に抑えられている。一般に可処分所得が上がると食料費の割合が低下するためエンゲル係数は低くなるが、日本の場合は実質賃金の減少が続き、家計はゆとりがない状態にあると推定される。

 このほか、エンゲル係数上昇の構造的な要因として女性の社会進出、高齢化、共働き世帯、単身低所得世帯の増加という人口・家族構成の変化が指摘されている。食費が割高になりがちなひとり暮らし高齢世帯、調理済みの総菜や弁当などを購入して食べる中食や外食の頻度が増える共働き家庭が増えれば食費への支出が増加する。年収1000万-1250万円世帯のエンゲル係数は25.5%だが、年収200万円未満の世帯は33.7%との調査にもあるように、低所得世帯が増えればその分、エンゲル係数の上昇を加速することになる。

「相対的な貧しさが広がっている」

 こうしたエンゲル係数の上昇要因を考えると、日本経済を襲った「失われた20年、30年」の帰結も再吟味が必要だ。この「失われた00年」の結果、日本の経済的地位は世界第二の経済大国からずり落ち、2000年に世界2位だった一人当たり名目GDPも韓国、台湾に抜かれ、24年時点で39位に転落。G7の中で最下位に低迷する。

  身近な生活水準でも、24年の生活保護申請件数は25万5897件で過去12年間で最多となり、生活保護利用世帯は165万2199世帯に上る。各種世論調査でも「節約志向の高まり」が報告されており、昨年12月の日銀生活意識アンケート調査では「一年前に比べ暮らしにゆとりがなくなってきた」と答えた人が57.1%に達した。

 エンゲル係数の上昇について、「生活苦の拡大というよりは、先進国で起こっている共通の社会の構造変化」(社会実情データ図録)との見方もあるが、ここ数年の動きから言えば社会の構造的変化と共に、「相対的な貧しさが広がっている」というのが生活実感ではないか。とくに近年、エンゲル係数が上昇幅を広げていることに注意が必要だ。

17:11
2025/02/10

POLITICALECONOMY第281号

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劣化過程をたどった日本のインターネット空間

          季刊「言論空間」編集委員 武部伸一
 
 インターネット空間で、ヘイト・差別・排外主義・陰謀論の嵐が吹き荒れている。それは米国でも日本でも、ここ数年の選挙結果に見られように現実世界に大きな影響を及ぼしている。なぜこのような事態に至ったのか。先ず日本国内での経緯にしぼり、これまでのネット空間の在り方を振り返り、考えてみたい。

パソコン通信時代はフレンドリーで秩序ある空間

 日本でのネット利用は、1985年電電公社民営化と合わせ電気通信事業法が成立、公衆電話回線を利用した通信接続が解禁されたことにさかのぼる。数社からモデム(接続機器)が一般発売され、日本において本格的にパソコン通信がスタートした。 「民営化の時代」にネット利用がスタートしたことに留意したい。

 1987年には当時の代表的な商用パソコン通信ニフティサーブがサービスを開始した。この頃スタンダードであったNECのPC98シリーズなど日本独自仕様のパソコンを使いながら、一般ユーザーが商用電子メール・フォーラム・掲示板の利用をはじめていく。各ユーザーはパソコン通信サービスを、固定ハンドルネーム(ニックネーム)を使い利用した。(推測だが、これは長距離トラックドライバーなどアマチュア無線利用者がニックネームでお互いを呼び合う習慣に影響を受けたのかもしれない。何しろ通信なのだから)

 いずれにせよ、ここに今につながる匿名のネット空間がスタートしたのだ。しかしこの時期の各フォーラムは管理人・サブ管理人が決められ、初心者へのガイド、フォーラム内議論の整理など、私自身も利用者であった記憶としては概ねフレンドリーで秩序のある空間として存在していたと思う。

憎悪と差別投稿があふれる「自由な場」に変貌

 1995年マイクロソフトからウインドウズ95が全世界で発売された。それ以前から存在していたインターネットが大衆的に利用される時代が始まったのだ。1996年、NTT直営インターネットプロバイダーOCNがスタート。ニフティなど他のプロバイダーも続々とインターネット接続サービスを開始した。

 1999年にはNTTが世界初の携帯電話でのインターネット接続サービスiモードを開始した。ちなみにこの年のパソコン世帯普及率は29.5%。

 また西村博之が日本最大級の電子掲示板(匿名掲示板)「2ちゃんねる」を開始したのもこの年である。ネット利用者の多種多様な興味・関心で細分化された掲示板「2ちゃんねる」だが、一度でも覗いたことがある人であれば、そこが猥雑で悪趣味でなおかつ差別表現にあふれた場であったことを記憶しているだろう。

 2003年ごろには「在特会」桜井誠が、ネット掲示板で在日朝鮮人・韓国人への差別・排外主義投稿を始め、ネット民(の一部)から熱烈な支持を集めるようになった。1980年代後半に(固定)ハンドルネームでの理性的な情報共有の場としてスタートした日本のネット空間は、20年と経たないうちに、匿名での憎悪と差別投稿があふれる「自由な場」へと変貌したのだ。

 2008年、スマートフォンiPhoneが日本で発売される。同時期に日本語版Twitter(現X)・Facebookのサービスが開始された。

 この年、象徴的な事件が起きた。それは秋葉原無差別殺傷事件。進学校出身の派遣労働者が、自ら投稿する「ネット掲示板」の荒らし行為を理由として犯行に至った。ネット空間が現実社会に直接的な影響を及ぼす時代が始まったのだ。

 日本での「ネット空間」が歪んでいく過程、いわば「ネット価値観の形成史」についての興味深い論考として、『世界』2023年6月号「ネットはユートピアか?ミソジニーとサブカルチャーのインターネット文化史」藤田直哉がある。現在のミソジニーと差別言辞の溢れるネット空間の源流が「2ちゃんねる的文化」にあり、それは80年代一部サブカルチャーの価値観、80年代フジテレビ的笑いの感覚にまでさかのぼると言う。刺激的で説得力のある論考である。

健康なインターネット空間再構築のために

 ではインターネットの利用者である我々が、ネットでの憎悪表現や差別排外主義に対抗し、あるいはそれらの言質に打ち勝つネット空間を広げていくために、どのような考え方が必要なのだろうか。

 朝日新聞2022年1月22日のメディア空間考コラムにおいて、「健全な言論プラットフォームに向けて デジタル・ダイエット宣言」が紹介されている。計量社会科学者鳥海不二夫と憲法学者山本龍彦による共同宣言は、情報を食事に例え「飽食」や「偏食」が招く弊害を「情報的健康(インフォメーション・ヘルス)」という概念で問題提起している。
参照  https://www.kgri.keio.ac.jp/docs/S2101202201.pdf

宣言自体は政治的にはニュートラルである。その詳細はここでは省くが、インターネットを人々の連帯のためのツールとして再構築していくため参考となる論考の一つだと思う。


09:35
2025/01/30

POLITICAL ECONOMY第280号

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第2次トランプ政権と米国覇権の行方

          横浜アクションリサーチ 金子 文夫

 第2次トランプ政権が発足して40日が経過した。この間、洪水のように大統領令を乱発し、米国国内も国際社会もトランプの言動に振り回されている。トランプ政権は何を目指しているのか、世界の覇権構造はどのように変貌していくのか、先行きはなお不透明だが、とりあえず現状を整理しておきたい。

大統領令の乱発

 トランプ大統領は最初の1か月だけで100件以上の大統領令(行政命令・覚書・布告)に署名した。国内政策では第一に、イーロン・マスク率いるDOGE(政府効率化省)を通じた政府機関の解体、政府職員の大量整理があげられる。国際開発局、消費者金融保護局の業務停止をはじめ、国防総省、中央情報局を含めて多数の政府機関に大幅な人員削減を迫っている。また、DEI(多様性、公平性、包摂性)を推進する政府内の部署の廃止を実施した。

 第二は移民排斥政策であり、「不法移民」の強制送還、メキシコ国境への米軍動員、壁の建設をはじめ、合法移民の規制、国籍付与の「出生地主義」の修正などが打ち出された。その他、環境・エネルギー政策の転換では、「パリ協定」からの離脱、化石燃料開発の促進策を実施した。さらに、法人税・所得税の減税政策、企業活動の規制緩和策が予定されている。

 対外政策では第一は関税政策であり、中国には、第1期政権期の関税引上げ策を継承し、新たに10%の追加引上げに踏み切った。隣国メキシコ、カナダへは、合成麻薬流入を理由に25%課税を提起したが、実施は延期されている。その他、鉄鋼、アルミ、自動車への25%追加関税、すべての国からの輸入品への一律10~20%関税、特定の相手国に対する相互関税など、様々な関税発動を予告している。

 第二に国際協調システムからの離脱だ。気候変動に関する「パリ協定」離脱、WHO等の国際機関からの撤退、国際課税協定・国際租税協力枠組条約交渉からの撤収などが目に付く。

 第三に、目下の二つの戦争に対する積極的な停戦工作だ。パレスチナ戦争では停戦協定の実施が進むなかでイスラエル寄りの姿勢を強め、ガザを所有してリゾート開発する構想を打ち出した。ウクライナ戦争では、米ロの2国間交渉を先行させ、ウクライナ、欧州諸国の関与を後回しにした。

引き起こされる内外の混乱

 第一に、大統領令の拙速な発動が現場に様々な混乱を引き起こした。政府機関の閉鎖、職員のリストラは、通常業務の停止、大統領令の執行停止を求める訴訟の多発、連邦地裁による差し止め命令など、総じて連邦政府の機能停滞といった事態を生んでいる。ただ、こうした混乱が生じるとしても、いずれ最高裁によって訴訟は終結し、行きすぎは是正されながら、行政整理は進行していくだろう。

 第二に、関税引上げが広範囲の輸入品に適用されれば、国内的にはインフレ、世界的には貿易の停滞、成長率鈍化を引き起こすだろう。移民排斥も低賃金労働力の不足に帰結し、インフレに結びつく。減税政策も同様の効果をもつ。バイデン政権下のインフレを非難して選挙に勝ったトランプだが、このままではインフレは避けられないように思われる。
 
 第三に、米国第一主義による国際システムの混乱だ。国際社会をリードしてきた米国がリード役を降りることになれば、様々な空白、停滞が生じる。「パリ協定」離脱は気候変動への取り組みに打撃を与える。デジタル課税協定も実現一歩手前で頓挫した。ウクライナ停戦交渉をめぐっては米国・欧州間に深い亀裂が生じた。国連総会の決議では、ロシアを非難する欧州等提案と非難を避けた米国提案が並列する形となり、亀裂が表面化した。G7、G20 の運営も混迷するだろう。

世界覇権構造の変貌

 トランプ政権の米国第一主義には二重の意味が込められている。第一は狭義の国益優先であり、覇権国に求められる国際貢献は軽視される。第二に、軍事力・経済力では超大国として世界第1位の座を維持することだ。従って、その地位を脅かす中国の台頭は抑え込む意思が強烈に発動される。超大国の特権、軍事的・経済的威圧を駆使して、ディールという手法で米国の国益確保を図ることになる。

 覇権国に相応しい国際貢献を果たさず、自国本位で普遍的理念(人権、法の支配等)を提供できない米国は、国際社会における信認を低下させ、友好国の離反を招かざるをえない。米国は国際社会をリードする覇権国の地位から後退し、代わりに中国が台頭してくるだろう。しかし中国も超大国とはいえ、普遍的理念を供給して世界から信認を得る覇権国にはなりえない。とすれば、世界は超大国として対立する米中と、これに続くEU、ロシア、インド、その他グローバルサウスが並立する、覇権国不在の多極化世界に向かうことになるだろう。多極化世界では各国が自国中心主義に走り、軍備増強に傾いて国際社会が不安定化する危険性がある。国連を軸とした多国間協調・連携が何よりも重要になるだろ
う。

17:46
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メルマガ第1号

金融緩和による「期待」への依存は資本主義の衰弱
                                                                   経済アナリスト 柏木 勉

 日銀の新総裁、副総裁が決定して、リフレ派が日銀の主導権を握った。副総裁となった岩田規久男氏は、かつてマネーサプライの管理に関する「日銀理論」を強く批判し、日銀理論を代表した翁邦雄氏と論争をくりひろげ、その後も一貫して日銀を批判してきた頑強なリフレ派である。

 さて、いまやインフレ目標2%達成に向けて、「「期待」への働きかけ強化」の大合唱となっている。この「期待」は合理的期待理論として欧米の主流派を形成している。そのポイントはこれまでにない大胆な金融緩和による「期待インフレ率の上昇」とされている。これによって実質金利を低下させ、それを通じて日本経済が陥っている流動性の罠からの脱出が可能になるというわけだ。ちなみに、近年ブレーク・イーブン・インフレ率なるものがよく出てくるが、これは普通国債の利回りから物価連動国債の利回りを引いて計算したものであり、期待インフレ率を表すとして利用されている。この期待インフレ率は、アベノミクスが騒がれ出してから、最近では1%程度にまで上昇してきた。同時に株高、円安が進んだ。これを見て「期待への働きかけ」は十分可能であり、現実に実証されつつあるとしてリフレ派の勢いは一層増している。

 リフレ派の主張に対しては様々な反論がなされている。その極端なものとしては、財政赤字が拡大する中で日銀が国債購入を増大させれば、財政ファイナンスとみなされ国債の信認(償還への信頼)が低下し、国債価格暴落で金利の急上昇がおこるというものだ。この時、設備投資はもちろん失速、財政は危機的状況をむかえる。もうひとつはカネを市中にジャブジャブに出していくわけだから、%インフレにとどまらずハイパーインフレをまねくというものだ。

 だが前者に対しては、いまだ家計の現金・預金が昨年で850兆円に増加し外国人の国債保有率も9%弱にとどまっているし、日本の金融機関の国債への信任は当分大丈夫だとか、また少なくとも今後の国債の新規発行分についてはその大半を日銀が購入してしまえば金利の大幅上昇はないとかの再反論がある。

 後者については遊休設備と多くの失業者を抱え潜在成長率との需給ギャップが大きい。だからハイパーインフレなどあり得ないとの再反論がある。その他様々な論点について論争はかまびすしい。

 だが問題は、リフレ派はデフレによる実質金利の上昇に焦点を絞っているのだから、実質金利と景気とりわけ利潤率との関係を見ることが必要だろう。実質金利の推移をみると、2000年代に入って近年まで実質金利は高い時でせいぜい2%強程度ときわめて低水準で推移している(ただし、リーマンショック直後を除く)。ちなみに80年代は5%台を上回っていたのである。そのなかでいざなみ景気は戦後最長を記録した。この間平均してCPIはマイナス.2%程度、実質経済成長率は2%弱と、日本経済はデフレ下で成長したのである。

 その後はリーマンショックにより大幅に落ち込み、回復ははかばかしくないが、ともかく2000年代全体を通じて、実質金利は長期にわたり低水準で大きな変化がないにもかかわらず、好況、不況が生じている。つまり景気の転換を左右しているのは実質金利以外の要因であり、例えばいざなみ景気の起動力となったのは、物価デフレよりも資産デフレからの脱却、デジタル家電を先頭としたデジタル革命、世界の工場となったアジアの生産ネットワークの形成、金抑制による労働分配率の低下であった。

 実質金利が高いと云う場合、何に対して高いのかが問題だが、むろん利潤率に対してだ。高くて2%程度の実質金利をクリアーできない利潤率が最大のネックなのだ。これを突破するのは最終的には不況下の合理化投資と需要創出型のイノベーションだ。デフレ下の低価格であっても利益を生むイノベーションである。しかし現状では200兆円におよぶ内部留保を抱えながら投資が低迷している。これはケインズの謂う企業家の「血気」の喪失というほかないだろう。
 
 そもそもインフレ期待を生むために、中央銀行による市場への説明能力やコミュニケーション能力などという小細工が大問題になるのは笑止千万というべきだろう。政府・日銀による「期待」の醸成という、お情けの支援なしには自ら投資に打って出ることができない。それほど「血気」が失われているわけだ。

 結局のところ、金融主導で金融面から資産効果を引き起こし、それによってようやく実体経済が動き出すというパターンしかとれず、それがまたバブルの形成・崩壊を繰り返すというのが現在の資本主義である。グローバル化で市場経済が世界中に浸透しているかの如く見えようとも、資本主義の中枢部分をなす先進国は、「期待」の醸成に頼るしかないという衰退の段階に入っている。

 

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次回研究会案内

第45回研究会
「トランプ関税でどうなる欧州経済」

講師:田中素香氏(東北大学名誉教授)
日時:10月25日(土)
14時~17時

場所:専修大学神田校舎1号館4階ゼミ42教室(東京メトロ半蔵門線、都営地下鉄・新宿線、三田線神保町駅 出口A 2下車徒歩3分)
資料代:1000円


 

これまでの研究会

第36回研究会(2020年11月28日)「ポストコロナ、日本企業に勝機はあるか!」(グローバル産業雇用総合研究所所長 小林良暢氏)


第37回研究会(2021年7月3日)「バイデン新政権の100日-経済政策と米国経済の行方」(専修大学名誉教授 鈴木直次氏)

第38回研究会(2021年11月6日)「コロナ禍で雇用はどう変わったか?」(独立行政法人労働政策研究・研修機構主任研究員 高橋康二氏)

第39回研究会(2022年4月23日)「『新しい資本主義』から考える」(法政大学教授水野和夫氏)

第40回研究会(2022年7月16日)「日本経済 成長志向の誤謬」(日本証券アナリスト協会専務理事 神津 多可思氏)

第41回研究会(2022年11月12日)「ウクライナ危機で欧州経済に暗雲」(東北大学名誉教授 田中 素香氏)

第42回研究会(2023年2月25日)「毛沢東回帰と民族主義の間で揺れる習近平政権ーその内政と外交を占う」(慶応義塾大学名誉教授 大西 広氏)

第43回研究会(2023年6月17日)「植田日銀の使命と展望ー主要国中銀が直面する諸課題を念頭に」(専修大学経済学部教授 田中隆之氏)

第44回研究会(2024年5月12日)「21世紀のインドネシア-成長の軌跡と構造変化
」(東京大学名誉教授 加納啓良氏)


これまでの研究会報告