遠山記念館(埼玉県川島町)を訪ねて
大相場師の秘めた思いから見えるもの
金融取引法研究者 笠原 一郎
コロナ明けして、今年のGWは最大10連休もと、かなりの人出が予想されるなか、どこか空いていそうな、そして何か面白そうな場所はないかとGoogle MAPを見ていたところ、埼玉県川島町に「遠山記念館」(写真参照)なるところを見つけた。好天のなか渋滞もなく1時間ほど車を走らすと、田植えを終えばかりの、のどかな水田が広がるなかに、ぽつんと緑茂る屋敷森にそれはあった。
なぜ広大な家を建てたのか
遠山記念館は、昭和初期に、今見ても最高の良材を使い丁寧に建築されたことがわかる壮観な3棟続き
の木造家屋の母屋と瀟洒な庭園、そして小さな美術館からなっていた。ほとんど来訪者もなく、迷子になりそうなくらいの広大でひんやりとした日本家屋は、日興証券(現SMBC日興)の創業者・戦後証券界の大立者である遠山元一が年老いたご御堂のため、そして、かつて追われた生家の復興のため、3年近い歳月と膨大な資金をつぎ込んで建てたものである。
それにしても、遠山は、いかに生家再興とはいえ、交通の便が決して良いとは言えない田んぼの真ん中に、高齢の母ひとりが、いや何人住まおうが人が住まうには広すぎる、この屋敷を、巨費を投じて建てたのであろうか。たとえ迎賓用としても、失礼な言い方かもしれないが、当時はどこにでもあったと思われる田んぼ以外になにもないような田舎に、だれを呼んだのであろうか。国の重要文化財にも指定されているという屋敷の桟敷で、そんなことに思いをはせながら、初夏のつつじが美しいお庭をぼんやりと眺めていた。
『小説 兜町』(清水一行著)にヒント
連休明け後、日本橋の丸善をぶらぶらしていると、このところのバブルの再燃とも思わせる株式市場の活況もあるのであろうか、話題本の書架に60年以上前に刊行された『小説 兜町』(清水一行著)の文庫本改版が平積みされていた。この小説で主人公が勤める「興業証券(日興証券)の社長大戸」のモデルとされているのが遠山である。あまりこの手のモデル小説は読む気になれなかったが、先の思いもあり、つい手にしていた。
ストーリーは、興業証券のヤリ手営業課長(というより鉄火場の相場師そのものの)である主人公が、朝鮮戦争からの経済活況、その後のスターリン暴落、神武景気・岩戸景気での大相場での連戦連勝の成功と昭和40年証券恐慌(当時の山一證券救済のための日銀無担保特融が実施された)にかけての失態、そして、“株屋”と一段下に見られ、その経営体質の近代化が求められていた証券会社にはそぐわない人物として、会社を追われるまでを描いたものである。主人公の仕掛ける相場(特定の銘柄の買い集め等)は、相場操縦、インサイダー、フロントランニング、自己思惑等々と、現在の規制環境下では、その手法のほとんどが違法・ルール違反のオンパレードではあるが……。この証券会社の社員という枠の中では納まらない主人公を、事あるごとに気にかけ見守っているのが、興業証券の創業社長の大戸(遠山)であった。
零落した生家を再興させたが・・・
戦後証券界の大立者とされてはいるが、兜町で投機に生きてきた大戸の心のうちに流れる相場師の熱い血を、著者の清水は、次のように語らせている。
「彼の生家はその地方きっての名家であった。その名家も父の代に没落した。大戸にとって、生家の再興は畢生の執念であつた。零落した生家の再興……。しかしそれはとてつもない浪費であった。だが彼はその浪費のために働き、浪費によって大戸家にまつわる汚名をそそいだ。…… 大浪費こそが、勝負に生きる男に、儲けの実感を汲み取らせてくれる。彼はそう信じてきた。しかしいま、興業証券だけは、なんとしても浪費の対象にしてはならないと思うようになってきた」
現実に遠山は、証券会社経営の近代化を図るため、日興証券の経営を日本興業銀行からスカウトした湊守篤に託し、思いの詰まった遠山記念館を財団法人化して、1972年にその生涯を終えた。しかし、四大証券の一角とされた日興証券は、バブル期以降、外国資本の下に入るなど変転を続け、現在は三井住友FGの傘下のSMBC日興証券となり、そして、遠山が後継にと密かに願った三男の直道は副社長在任中の1973年、フランス ナント上空のイベリア航空機事故により亡くなっている。
また、紅葉の季節にでも、遠山の思いが凝縮したようなお屋敷を訪ね、終戦後の混乱期そして昭和30年代の高度経済成長のただなかで、相場師たちが躍動した株式市場、清水一行が描いた頃の兜町の兵どもの夢の光景に思いをはせてみよう。