熊本地震、あの時何が起きたのか
東海大学経営学部教授 小野豊和
4月14日午後9時26分、熊本地方を震源とするM6.5「熊本地震」が起こった。益城町で震度7、余震を経て収束に向かうと思われたが16日午前1時25分、同地方を震源とするM7.3の大地震が九州を揺さぶり被害が一気に拡大した。以来震度1以上の有感地震が1150回(5月2日13時現在)と続く。熊本地震の特徴は震源が広域にまたがっていることだ。震源は阿蘇山を挟む熊本〜大分両県を走る九州中央部の各地に及び「これまで経験したことが無い地震」だ(気象庁)。日奈久断層帯と布田川断層帯が熊本市で重なり、14日午後の前震(M6.5)は日奈久断層帯で起こった。
16日未明の本震(M7.3)は布田川断層帯が震源だった。同日午前3時55分のM5.8は阿蘇山向こうの産山村付近が震源だった。同日7時11分頃のM5.3は大分県の別府一万年山断層帯で起き、19日午後5時52分頃は今回の地震で最も南西域にある宇土・八代付近で発生しM5.5だった。熊本は阿蘇山を抱えているため火山活動との関連も心配された。建造物の倒壊、土砂崩れが相次ぎ、死者49人、行方不明1人、災害関連死17人、重軽傷者1,603人、建物の被害状況は全壊、半壊、一部損壊が計52,618棟(5月3日現在)。本震後の4月17日は855カ所の避難所に183,862人が避難したが5月に入り熊本県下27市町村に391カ所、20,002人と減少傾向にある。
片付けたところに本震
個人的な体験だが14日夜の最初の揺れの時リビングで風呂が沸くのを待っていた。ガタガタ、ミシミシと音がしたかと思うとテレビが動きだしアンテナが外れて見えなくなった。壁に飾ってある60枚程の家族写真の額が紙吹雪が飛ぶようにひらひらと舞って落ちた。書棚が倒れガラスが割れた。キッチン側の大型冷蔵庫が飛び出し食器棚の食器の大半が割れた。30秒ほど続いただろうか。長方形構造の部屋が菱形状に左右に軋む中でただ立ち竦むしかなかった。
風呂桶の湯は半分以上飛び出し、洗面所は鏡の裏に納めていた化粧品類が全部シンクに落ちた。書斎は壁2面の天井まで積み上げた書棚が倒れ足の踏み場がないほど書籍類が散乱した。2013年10月完成の新築マンション9階に住んでいるが、玄関ドアを開けると棟を繋ぐ免震構造の廊下が激しく軋んだのか床が外れ30㎝程の穴が開いていた。食器棚など片づけた翌々日の未明に本震が襲い元の木阿弥。以降余震が続いている。
前震で持ちこたえた一部損壊の建造物も本震では倒壊し家に戻っていた主婦が犠牲になった。九州新幹線、九州自動車道等交通の要が直撃され約2週間機能不全に陥った。山間部は孤立し、土砂崩れが起き南阿蘇村では多くの犠牲者が出た。落下した阿蘇大橋の横にある東海大学農学部は活断層の真上に位置し建物は壊滅状態、近所のアパートに住む3人の学生が犠牲になった。
専門家のコメントに違和感
政府として南海トラフを警告し地域防災が動き出していたが、直近で熊本地域の大地震を警告する専門家はいなかった。にもかかわらずテレビでは「想定外の地震」と言いながら「当然起こる環境にあった」と自信満々の専門家たちに違和感を持った。ニュース報道は犯罪報道に似ている。被災者に寄り添うというよりも厳しい現場の発見と救援の遅れに力点が置かれている。病院天国と言われていた熊本地域だが耐震化の遅れで200を超える病院、診療所が損壊し入院患者を他施設に移送した。
いち早く動き出したDMAT(災害派遣医療チーム)260チーム1,055人が活動、自衛隊、警察、消防、海上保安庁等約2,000人の救援活動に感謝、周辺自治体、ボランティアも動き出した。4月25日には激甚災害法指定を受けた。熊本城、阿蘇神社、通潤橋等国指定の重要文化財・景観の被害も大きい。議会の決議を経ず専決処分で復旧・復興の補正予算を通した蒲島知事の力量に期待する。