カナダ移民野球チーム“バンクーバー朝日軍”の歴史と栄光
東海大学経営学部教授 小野豊和
8月6日広島原爆の日、甲子園球場で100年を迎える全国高校野球選手権大会が始まった。フェアプレーに徹する姿は勝者も敗者もなく実に清々しい。100年以上前、カナダに渡った日系移民は激化する排日運動を受け、辛酸をなめつつも野球で信頼を勝ち取った。
『東京経済雑誌』明治22(1889)年12月の社説によると「嗚呼此の遊民を奈何すべきや」と題して「土地の狭小なるに比し人口が多く、資本なお不足のため事業はおこらず、都市農村を問わず無為の遊民がその数を増やしていることを嘆じ、これが対策としては海外に出稼ぎし、移住するに如かざるなり」と主張している。明治政府は日本の近代化を進めるが急激な人口増を受け入れる事業の拡大もなく、一方で日清・日露戦争の戦費調達で財政は困窮、農村漁村が深刻に疲弊する中で移民奨励策をとるのである。
この政策に対して、明日の食い扶持に事欠く若者は新天地を求めアメリカへの移住が加速する。過酷な低賃金労働にもかかわらず日系人は器用さと真面目さで仕事の範囲を拡大していくが白人の領域を侵すと思われ、米国政府は規制のための移民法を作り、やがて日系移民が多いカリフォルニアでは排日運動が激化し、ルーズベルト大統領がアメリカ本土入国拒否の命令を出す。米国上陸が拒否されると若者はカナダへ行き先を変えるが、地続きのバンクーバーにもアメリカの排日運動が飛び火するのである。
苦難のカナダへの移民
バンクーバーの日系移民1号は1877年に永野万蔵の密航と言われている。網本の息子だった万蔵はフレーザー川を上ってくる鮭の漁に成功し「銀鮭王」と言われ、この噂が移民に拍車をかけ増大する日系移民がさらなる排日運動を触発することになる。1887年大陸横断鉄道がバンクーバーまで開通、香港—バンクーバー間の太平洋航路の運航開始でバンクーバーでは鉄道・港湾などの都市開発のための労働需要が急増、過酷な低賃金労働であっても本国での就労が望めない日系の若者が従事していく。英語を話せない一世たちは、日系人仲間の街リトル・トーキョーを形成していく。バンクーバー大火災で住宅需要が増すと林業でも日系移民が活躍し地位を固めていくが、白人たちは日系人を賛美するどころかジャップと蔑み、1907年の外務省通商局長石井菊次郎の到着の日に襲撃事件を起こすのである。
暴力を好まない一世たちは国民的スポーツの野球チームの結成を思いつく。一世たちの指導の下、二世の少年達が集められ技術を磨き強いチームとなり、白人チームの挑戦を受ける。白人贔屓の審判は不平等な判定を下すが、監督は「決して抗議をするな、野球技術だけで勝とう」と指導し白人チームに勝利する。民主主義社会では勝利者は賛美され、やがてカナダ国民からも尊敬されるようなる。
ところが1941年12月7日の真珠湾攻撃を機に財産は取られ強制収容所に送られ過酷な運命を辿ることになる。米国と異なりカナダの日系人に対する戦後補償は1988年のマルルーニ首相と全カナダ日系人協会との合意まで待つことになる。社会的影響力のある弁護士、議員などに就いた三世たちが運動を起こし、暴力で戦わずフェアプレーとスポーツマンシップで礼儀正しく振る舞い勝利したことが評価・尊敬された。バンクーバー朝日軍は悲劇の解散から61年たった2003年、カナダ野球殿堂の理事長が「われわれには借りがある…」とカナダ社会がかつて日系人に対して犯した不正の謝罪と償いを、すべてのカナダ人すべての日系人に向けて表明しカナダ野球殿堂入りを認めた。
6月にエースピッチャーの息子(古本喜庸氏)に出会い“バンクーバー朝日軍”の存在を知った。偶然にも一世の祖父は阿蘇出身ということで熊本の大学連合での講演を依頼した。フェアプレーとスポーツマンシップで生き抜いた話を聞くことで、若者が忘れていたものを思い出してもらえたらと期待している。
【参考文献】若槻泰雄『排日の歴史〜アメリカにおける日本人移民』中公新書、古本喜庸『バンクーバー朝日軍〜伝説の「サムライ野球チーム」その歴史と栄光』東峰書房