ロシアの原風景 ‐ プーチンの軍事侵攻の“何故”
金融取引法研究者 笠原 一郎
2月以来、ロシア・プーチンによるウクライナへの軍事侵攻の悲惨なニュースが連日のように伝えられている。欧米を中心とした強力な金融・経済制裁、そして国際世論からの強い非難も顧みられることなく、重武装のロシア軍がウクライナの地と人々を蹂躙・殺戮している画像が映し出され、なんとも言えぬ無力感に苛まれる日々が続く。そこでは、核兵器を保有する軍事国家に対する国連の機能不全が浮き彫りとなり、グローバルパワーにおけるアメリカの地位低下、主要エネルギーの多くをロシアに依存するドイツ、そして、狂気に戸惑う中国共産党の立ち位置も、また、出口の見えない深い混迷を象徴しているかのようである。
ロシア・プーチンは、何故、予見されたであろう金融・経済制裁、国際世論の強い非難を鑑みることなく錯乱したかのような武力侵攻を始めたのだろうか。プーチン自身が語るところによれば、「NATO加盟を阻止するため“やむを得ない選択”」であり、「ウクライナは歴史的にロシアに帰属」と、身勝手な主張を繰り返している。こうしたプーチンについて専門家・識者からは、ロシアの唯一の産業ともいえるLNG等の豊富な天然資源による欧州エネルギー支配への狼煙、南下戦略の要衝である黒海に面するウクライナの実質的な占領という解説、また同時に、“病気で常軌を逸した”等々という見方も出ている。しかしながら強い金融・経済制裁のなか、この拡大構想はコストに合わないことは明確である。どれも腹落ちしない。
“人の心のうちは解からない”とは思いつつ、厳重な情報統制下とはいえロシアの少なからぬ人たちが、プーチンのウクライナへの軍事侵攻を支持していることもまた事実であろう。
司馬遼太郎『北方の原形 ロシアについて』から読み解く
私は全くの門外漢ではあるが、この“何故”への手がかりとして、以前に読んだ司馬遼太郎『北方の原形 ロシアについて』(1986年、文藝春秋)を思い起こした。この考察は、旧ソ連崩壊(1991年)前に書かれたものであるが、この正気とは思えないプーチンの軍事侵攻の何故と、そしてロシアという国の人々に潜在する心の底についての再考のヒントがあるように思えた。
まず、司馬はロシアを「若い歴史の国、そして若い分だけ猛々しい野生を持つ」と言う。確かに欧州ルネッサンスの開花から遅れ、農奴制の圧政の上でロマノフ王朝(モスクワ公国)がウラル山脈を越え広大なシベリア大地を併合し、ロシア帝国として大国の仲間入りをしていくのは、18世紀に入ってからである。歴史的にはかなり若い。地理的には強大な武力を誇った遥か遠くのモンゴル(蒙古)は地続きであり、ひとたびこの騎馬軍団が襲来すれば、街も耕地も人も、蹂躙され焼き尽くされ皆殺しにされる。司馬が「スラブの大平原での農耕が、それだけで危険な営みであった」と言う通り、13世紀のチンギスハン以降の幾多の蒙古来襲は、この地に文化的な熟成をする時を与えてくれなかった。
人々の心の奥底に留め置かれた記憶
そして、騎馬軍団の略奪の通過の地であるロシア平原に、たまたま留まってしまった一団が約250年にわたり過烈な軍事圧政を敷きこの地を支配した。キプチャク汗国という。この地の人々には過酷な税による収奪が行われ、少しでも逆らう気配を見せれば、無慈悲な騎兵たちにより街は焼き払らわれ、虐殺されつくされる。司馬はこの長い暴力支配の抑圧の記憶が「タタールのくびき」として、この地の人々の心の奥底に留め置かれた記憶こそが、「国の作り方や在り方への影響は深刻」であり、「ロシアの原風景として考えるために必要なこと」と見立てる。この原形から、「外敵を異様におそれるだけでなく、病的な外国への猜疑心、そして潜在的な征服欲、また火器への異常信仰、それらすべてがキプチャク汗国の支配と被支配の文化遺伝だと思えてならない」と喝破する。
この論評は、作家自身が徴兵によって旧満州で薄い鋼鈑の装甲車のなか、圧倒的なソ連軍と対峙した過酷な体験のうえで書かれたものである。彼の眼を通すことで、私には、今回のプーチンの狂気ともいえる侵略と、それを少なからぬロシア国民が支持する“何故”が朧ながら浮かび上がってきたように思えた。
すなわち、旧ソ連崩壊によってワルシャワ条約機構という盾を失ったロシア・プーチンは、NATO拡大を心底猜疑し、怖れている。そして火器を核兵器と置き換えれば、余りにも安易な核兵器の恫喝は、この破滅的兵器に対する異常信仰に根ざしているものであろう。本質的には臆病で外敵を異様に恐れるこの国の独裁者は、その潜在的な征服欲と相まって、我々の眼からは狂気としか思えない軍事侵攻に踏み込んでいった、という見立てである。
“ぬるい島国”日本も、こうした過酷な‐原形‐を記憶の深層に脈々と保つ隣国の人たちたちと相対することから逃れることはできないことを、常に心に留めておくべきであろう。改めて思い知らされる。