根強い現金志向
NPO現代の理論・社会フォーラム運営委員 平田 芳年
「この4、5年、北京や深圳はもちろん、田舎町に行っても中国で日本人が経験するのは、店や飲食店で百元札など現金を出した時会計係の不満気な表情だ。特に『一角』など細かな硬貨がかかわると『小銭がない』からといって多めにお釣りをくれたり、レジ横のガムを釣り銭代わりに寄越すこともある」。会員情報誌『選択』1月号が「デジタル人民元の脅威」と題する論考を掲載、アリペイ、ウィーチャットペイといったスマホ決済手段の浸透で、中国では紙幣も硬貨もない完全なキャッシュレス社会が進行していることを伝えている。
日本でもここ数年、スイカ、パスモ、楽天ペイ、ファミペイなど新たな決済サービスが登場し、従来のカード決済なども加えて、「キャッシュレス社会の到来」を予測する論潮がメディアに溢れている。政府も消費増税に合わせて、カード決済を対象にポイント還元策を打ち出し、キャッシュレス化を後押し、経産省は「2025年までにキャッシュレス決済比率を40%に高める」との目標を掲げる。
日本社会でも紙幣や硬貨による決済が姿を消し、スマホ決済を中心としたキャッシュレス社会が主流になるとのイメージだが、あと5年で日本社会のキャッシュレス比率を4割に高めるなどという目標に現実味があるのだろうか。筆者の周辺を見渡しても、飲み屋の支払いやスーパーのカウンターで相変わらず現金決済する客が相当数おり、中国のように店員から不満気な表情を浴びた経験もない。
キャッシュレスの中で増える現金通貨
日本のキャッシュレス決済の現状を見ると、「内訳はクレジットカード30%、交通系・流通系のプリペイド式電子マネー5%程度、スマートフォン決済の○○ペイといったフィンテック決済サービスは1%未満」(雨宮正佳日銀副総裁)だという。一方で、現金通貨の流通動向で見ると、2018年の現金流通枚数は1円硬貨や5円硬貨は前年比マイナスと緩やかに減少しているが、百円硬貨は0%台後半と名目GDP成長率とほぼ同程度のテンポで増加を続け、五百円硬貨や千円札は前年比2%を上回るテンポで流通枚数が増えている。一万円札や五千円札の高額紙幣は前年比3、4%とさらに高い伸びとなっており、家庭や企業に出回る現金流通高は18年までの5年間で22%増の115兆円に達する。
「こうした事実を踏まえると、釣銭が嵩張る少額決済において、キャッシュレス化が進んでいる側面が窺われますが、全体としては現金決済がなお多く使われ続けている」(雨宮副総裁)というのが、専門家の見立てだ。
日本経済新聞のコラム「やさしい経済学」(2020年1月7日)によると、「世界でキャッシュレス化が進んでいますが、多くの国では現金発行が毎年増えており、実は現金離れが進んでいない」(白井さゆり慶大教授)という。その理由は、「私たちは決済のためだけに現金を求めているのではなく、『資産』として保有しておきたいから」。白井教授の解説では、①預金金利が下がるほど現金との違いがなくなり、現金需要が増える。②金融システム不安が高まると、預金を引き出して現金保有を志向する人が増える。③資産課税や税務調査が強化されると現金保有が増える。
先進国の中でも日本は根強い現金保有意識が社会に広く行き渡っているようだが、08年の世界金融危機以降、多くの先進国で現金発行が急増しているという。その共通の要因は主要国中央銀行の金融緩和で、金利が大きく下押しされたことが挙げられる。しかも定年退職すると、クレジットカードの利用をやめる人も多く、高齢化が進む国ほど現金需要が高くなる傾向にあるという。
便利さや効率化、コスト削減効果などから中央銀行のデジタル通貨発行論議が始まっているが、企業間取引や銀行・証券会社間取引といった限られた分野での普及はともかく、5年先、10年先に日本社会から紙の紙幣、硬貨が消え、デジタル通貨で覆い尽くされる姿を想像できないのは筆者だけだろうか。