「論語と算盤」艶福家 渋沢栄一をどう見るか
金融取引法研究者 笠原 一郎
少々、時間が経ってしまったが、コロナ禍が続く初夏の休日の午後、人との接触を出来るだけ避けろと言われているなかで、どこか人出が少なく楽しめるところはないかと思案していたところ、自宅に近い大宮公園内にある『埼玉 歴史と民俗の博物館』で開催されていた「青天を衝け~渋沢栄一のまなざし~」展 (『埼玉 歴史と民俗の博物館』企画展)(本年3月~5月開催)を見つけた。この春から始まった渋沢栄一の生涯を描くNHK大河ドラマ「青天を衝け」に乗った企画である。“これといった売り物がない”海なし県の埼玉で、深谷出身の新一万円札の顔にもなる渋沢に着目したものである。数年前の映画「翔んで埼玉」の自虐感を打ち消したいとの気合も垣間見えたが、コロナの影響もあるのか、案の定、人影は疎らで、まずは目論見どおりであった。
「日本資本主義の父」とも呼ばれる明治期の大実業家 渋沢については、多くを話す必要はないと思うが、私の勤務地に近い兜町・茅場町に残る彼の足跡を少しだけ紹介する。彼が創設した旧第一国立銀行の建物跡は、今は、みずほ銀行兜町支店となり、その一角には小さな宝くじ売り場の窓口が併設されている。このみずほ兜町から東証の大きな建物を挟んだ首都高下の日本橋川沿いの彼の旧宅跡は、日証館(平和不動産所有)という古色蒼然とした大理石造りの建物となっている。また、永代通り茅場町交差点の一角には、現在、渋沢の名を冠する唯一の企業である渋澤倉庫(株)所有のコジャレたビル(渋澤シティ・プレイス)が建っている。
渋沢は5百社近くの企業の創業・経営に関与したにもかかわらず、三井・住友等の旧財閥と違い多くの企業名にその名を冠していないことから、現在、企業活動に対する知名度という点では、その名はややもすれば過少に評価されているようにも思われる。この企画展では、これを払拭させたいとの意気込みもこめて、彼の郷里である深谷血洗島を出て江戸へ、そして明治から大正にかけて、92歳でその生涯を終えるまでの成功ストーリーを、ほぼ時代順に絵画・写真・書・衣装等が数多く集められ、語られていた。さらに、旧主である徳川慶喜との関係を示す資料、また、その設立に力を注いだ商法講習所(一橋大学)や日本女子大学校に関する資料なども集められ、
充実感のある展示ではあった。
意外と小柄
ひととおり見てまわるなかで、あれっ…と、思う展示物があった。それは渋沢が男爵を授爵したときに着用していた「大礼服」の実物を見たときである。“小さい”のである。大河ドラマで渋沢を演じる吉沢亮もそれほど大柄な役者さんではないが、渋沢本人は、かなり身長の低い人だったようである。展示の最後(出口のところ)に、彼の等身大とされる写真パネルが置いてあったが、身長150cmそこそこのうちのカミさんよりも低い感じで、この“小さい大礼服”のとおりであった。
渋沢といえば、『論語と算盤』で知られるように、古典から学んだ素養・見識をもとに、明治に入ってからは、政治とは一定の距離をおきつつ、多岐にわたる企業活動・文化活動において成功を遂げた人である。一方で、プライベートでは、彼自身も「婦人関係を除けば、自分は俯仰天地に恥じない」と述懐していたそうだが、子供は10名以上、ネット情報によれば、他に何人の子供がいるか・・・と言われるほどの“艶福家”(昔はこの言葉を便利に使ったようであるが、今の世だと厳しいであろう・・・)として知られる。
ここで、論語には女性を評した言葉があることを思い出した。子曰く「女子と小人とは、養い難し。(女子と小人はとかく養いがたく、救いがたいものである。近づけば恩になれて図に乗り、遠ざければうらむ)〔陽貨〕」の有名な節である。中国古典の泰斗 諸橋徹次は、この言葉を「封建時代の一弊害」と一刀両断しているが、艶福家の彼はこの論語の「女子と小人」の節をどのように語っていたのか、気になった。
NHKはどう描くか
『渋沢栄一「論語」の読み方』(竹内均編・解説)をめくると、「(この言葉は)男尊女卑を原則として、女性に教育をさせない時代の誤った考えだ。いまや政治上も男女同権の実現が近づいてきたから、昔と同じ見方をしてはいけない。・・・孔子は進取の主義をもつ人だから、もし孔子が現代に生まれていたら、必ずこう言ったと思う」と書かれている。まさしくとは思うが、かの述懐とこの解釈をどのように咀嚼すればよいのであろうか。大河ドラマもそろそろ終盤に入るが、やはりNHKは渋沢のこちらの面はどのように扱うのだろうか。
だが、それにしても、92歳で天寿を全うするまで現役(日本女子大学長を最期まで)を続けたこの“小さな”おじさんのどこに、このような公私にわたる凄いパワーが漲っていたのであろう。孔子は「道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶ。〔述而〕」と説く、なるほど、と思う次第である。