「支援の箱」から地域へ、支援の転換
まちかどウォッチャー 金田麗子
私の職場は、知的障害者のグループホームであるが、このところ頻繁に「助けて」と駆け込んで来る女性がいる。母体である通所作業所のメンバーのAさん。20代のAさんは、父親が怖いと訴える。身体的暴力はないが、大声で罵倒など精神的暴力が原因だ。
「家は安心できないよ」と語るAさんは、グループホーム入居を希望しているが、どの施設もすべて満室で入れない。
以前、ある男性のメンバーが家族から暴力を受けていて、緊急に他の法人運営のグループホームを利用していたことがある。このように、家族からの身体的暴力。威圧や罵倒、無視、無関心などの精神的暴力は、団体の作業所やホーム利用者の周辺でも起きている。 障害者に対する、肉体的精神的暴力は許されないことは当然だ。しかし、そもそも大人になった彼らが、地域の中で、安心して独居生活できる場が得られないことが最大の問題なのではないだろうか。
相模原事件の現場になったような大型障害者施設ではなく2006年施行された「障害者自立支援法」により国は、施設から地域での生活に移行する施策として、障害の程度によりグループホーム、ケアホームの利用を促進した。
さらに、2013年施行の「障害者総合支援法」により、2014年4月からグループホーム、ケアホームの一元化と、独居生活を希望する人向けに、サテライト型住居の設置を進めてきた。
しかし私の職場では方針として掲げているものの、サテライト型住居の設置は進んでいない。住居確保が難しいためだ。厚生労働省の調査でも、2014年時点で知的障害者のサテライト住居利用者は191人しかいない。
支援者が主人意識を持ってしまう施設
住居確保の実効性を高める施策が必要と言えるが、一方でグループホームにおける支援の在り方を見直す必要があると思う。「無理。職員がいないと一人は無理」職場で、利用者たちに独居生活を希望するか聞くと、全員即答した。彼らはもう13年もグループホームを利用しているのに。居心地が良い施設だと勘違いしてはならない。13年かけて「自分は一人では暮らせない」と彼らに思わせるような、間違った
支援をしてきているのだ。
グループホームやケアホームは、指導や管理が目的ではない。施設の小型版ではないと定義されている。私の職場でも、危険でない限り彼らの行動を制限してはならないと掲げられている。しかし共同のスペースがあり、共同の行動があり、他の利用者との関係性があり、管理されないなんてことは現実にはありえないのだ。見守りと言う名の管理体制にある。
利用者は一人ひとり、好きなことがある。朝窓を開ける。体操をする。歌いたい。好きなテレビが見たい。洗濯が好き。記録好き。
でもすべて時間が決められ、抵抗すると「ルールを守らない」と叱られ、ご飯も盛り切り。お菓子は事務所管理で没収。パンは何もつけるな。健康のための支援というが、了解を得ない支援は、刑務所と一緒だろう。
利用者の自己決定権と支援といいながら、施設側が提供したい支援メニューを押し付ける。行動記録が好きな利用者が、一日の行動を記録する時間に、料理を経験させると言われ抵抗した。それなら記録の時間を短縮するためパソコンでフォーマットを作り、料理時間を確保しようと言い出した職員がいた。本人は善意のつもりだ。
一人で生活する自信につながる支援
なぜこうしたことが起きるのか。支援の箱である施設に利用者がいるからである。支援の箱にいると、支援者が主人意識になってしまう。ルールの王になってしまう。
私は以前、民間の婦人保護施設で働いていた。現在婦人保護施設は、広義の意味でのホームレスや、暴力被害者やその子どもなどが利用している。その中には、知的障害者、精神障害者の利用も少なくない。施設利用10年、20年と長くなる人も多い。
良い施設、良い支援は、利用者自身が、一人で生活する自信につながる支援を行うことだと思う。管理されることへの依存や、無力感が育つような支援はしてはならない。ところが「支援の箱」にいると無自覚になる。支援ではなく、他者を支配する行動に陥ってしまう。私自身痛感している。
利用者が一人で住む家に訪問して行う支援は、支援者にとって、あくまでも自分はサポート側であることの自覚を促す。障害者だけでなく、高齢者も、婦人保護施設など施設利用者も、なるべく早く地域で、在宅で必要な支援を受けられるように、また自ら支援を選択できるように、住居の確保や支援の在り方の転換が必要だ。