日誌


2021/05/21

POLITICAL ECONOMY第192号

Tweet ThisSend to Facebook | by:keizaiken
『星の王子さま』の翻訳者・内藤濯を生んだ熊本事情

                                                             元東海大学教授 小野 豊和

 『星の王子様』を手に取ったとき、フランス語の題名『Le Petit Prince』“小さな王子”が、何故“星の王子様”になったのか若い頃から疑問に思っていた。作者のサン・テグジュペリはパイロットでもあり、第二次大戦中の1944年7月31日、自由フランス軍として偵察中、地中海上空で行方不明になった。その前年に『星の王子様』をアメリカで出版した。私事だが2012年春、大学内の異動で熊本に赴任してきたある日、県立図書館裏庭で「内藤濯文学碑」を見つけた。内藤濯が熊本出身と知り、その出自を調べる中で生誕の地にたどり着いた。江戸末期の肥後藩は揺れ動く政治の波の中にあり学校党、勤皇党、実学党が割拠していた。内藤濯の生家跡は菅原神社となっている。熊本で生まれた内藤濯が何故フランス語を目指すようになったのか当時の事情を探った。

 内藤濯は1883(明治16)年7月7日、内藤泰吉の四男として熊本市新町で生まれた。内藤家は元々玉名郡南関町の医家の家系で、父・泰吉も医者であった。父について「私の父は、縁あって明治維新の志士横井小楠に師事した男だった。だからといって、何も四書五経を通じて経世の策を説き聞かされたわけではなかった。熊本郊外の沼山津にあった小楠屋敷の玄関部屋に寝起きして、来る日も来る日も雑巾がけや井戸の水汲みばかりさせられる内弟子の身の上だったらしい」(『思索の日曜日』)と述べている。また、「時世はもはや漢方医術のような陋習に拘泥することを許さぬ。敢然志を立てて長崎に赴き、蘭方医術を学んで斯界に新風を導入せよ」(『未知の人への手紙』)ということで、オランダ医学を学ぶために長崎に赴く。

父泰吉は医学校開設に奔走

 1871(明治3)年に横井小楠の流れを汲む実学党が藩政の主導権を握り開花する。近代化のための教育改革を重視する実学党政権は、西洋の文物・技術を移入するため、アメリカからジェーンズを招いて「熊本洋学校」を、またオランダ人医師マンスフェルトを招いて「古城医学校」を開設する。古城医学校は熊大医学部の前身で、父・泰吉が設立のため奔走する。

 新町に生まれた濯少年は、1888(明治21)年、慶徳尋常小学校に入学。高等小学校を経て明治30年春、中学に進学する。濟々黌を目指すのが当時としては“通り一遍の順序”と思われていたが、父・泰吉から“待った”がかかる。「父は頭を横に振って、あの学校はよろしくないというんです。なぜだと訊くと、あの学校はわしと政見を異にする政党が後押ししているからだ、ときっぱり言ってのけたきりで、まったく黙りこくったままでした」(『思索の日曜日』)。濟々黌は克堂・佐々友房が設立した学校。『克堂佐々先生遺稿』によると、幕末の肥後藩には学校党、勤皇党、実学党の三派があり、「学校党は佐幕攘夷、勤皇党は尊王開国」と分離している。佐々は勤皇党であり、内藤泰吉は実学党だった。濯少年は父親の指示に従い、筑後・柳川の伝習館中学に進学する。柳川の立花藩には横井小楠と親交のある人たちがいて北原隆吉(白秋)と同級になる。

 1899(明治32)年3月、長兄の游が東京帝大工科大学を卒業。東京瓦斯への就職を機に、弟濯の学問修業を引き受け、濯は開成中学2年の編入試験に合格し上京。次第に文学青年ぶりを発揮し、文学青年の登竜門の一つ『新声』に投稿を始める。1903(明治36)年9月、第一高等学校一部(文科)丙類に入学する。文科丙類はフランス語を第一外国語とするコース。元々英語が好きだった濯は文科甲類に進むつもりだったが、長兄の游が「いまさら英文学にあるまい。あまり人が手を出さぬ外国語に挑戦してこそ男の本懐ではないか」とそそのかした結果、フランス語を学ぶことになったようだ。翌年病気で一年休学するが復帰した明治38年10月、上田敏の訳詩集『海潮音』が出版されると、版元の本郷書院まで買いに行きすっかり没頭する。ポール・ヴェルレーヌの有名な『秋の日の ヰオロンの ためいきの…」で始まる『秋の歌』が入っている詩集だ。

 1906(明治39)年には東京帝国大学フランス文学科へ進学。フランス近代詩の翻訳を発表し始める。1911(明治44)年には陸軍中央幼年学校のフランス語教官。1920(大正9)年には第一高等学校のフランス語担当となる。1922(大正11)年から3年間、文部省在外研究員としてフランスに留学。パリで初めてとなる能舞台を紹介。精力的に日仏文科交流を図り、フランス政府よりレジオン・ド・ヌール勲章シュバリエを授与されるなどフランス文学研究の草分け的存在としてフランス近代詩を紹介。帰国後は、文学座等の劇団にも関係し、ラシュー・モリエール、ラ・ロシュフコー等の翻訳に力を入れる。1946(昭和21)年、詩人、演劇人、音楽家、放送関係者らで「詩の朗読研究会」を発足。1953(昭和28)年に内藤濯訳『星の王子さま』を出版する。1969(昭和44)年 勲三等銀杯授与、「児童文化功労者」表象を受け、1977(昭和52)年94歳で没する。

 サン・テグジュペリの『星の王子さま』は名訳と言われ広く読者に愛され、2005年までに600万部を超えるベストセラーとなった。『星の王子さま』を日本に伝えた故内藤濯の業績と、原作者サン・テグジュペリ没後60周年を記念した文学碑が2005(平成17)年11月に熊本県立図書館敷地内に建立された。

声を出し韻を吟味する翻訳手法

 内藤濯の翻訳手法は口述筆記と言われている。声を出して、その響きに美を求めた。フランス語の原文を声を出して読み、ふさわしい日本語を声を出しながら推敲する。原文で感じたフランス語の音と響き、韻を大事にした。日本語にしても同じで、口述しながら日本語の響き、韻を吟味しながら、最終的なフレーズを決めていく。言い回しは哲学だとし、それをこどもが読んでも分る日本語を選び決めていった。『星の王子さま』の訳は原作者の宇宙観、挿絵などから決めたと言われている。

 内藤濯がパリで能舞台の成功させた70年後の1992(平成 4)年に熊本在住の能楽師狩野琇鵬がエクサンプロバンス市に総檜の能舞台を寄贈。その縁で熊本市とフランスのエクサンプロバンス市とは2013年に友好都市契約を結んだ。2019年のラグビー・ワールドカップ大会熊本会場ではフランスチームの試合にエクサンプロバンスのシニアチームを含めて8万を超える応援客が見えた。なお、1998年地中海沖でサン・テグジュペリの名前入りのブレスレットが発見され、2000年にはその付近に落ちていた飛行機の残骸がサン・テグジュペリの搭乗機と確定され、さらに8年後の2008年、当時敵対していたドイツ軍のパイロットだったホルスト・リッパート曹長がサン・テグジュペリの偵察機を撃墜したとする証言が公開された。
 明治政府が招聘した東大仏文科のお抱えフランス語教師は、私の母校“暁星学園”の校長を務めたカトリックの修道院マリア会の神父たちで、東大仏文科からは辰野隆(東京駅を建てた辰野金吾の長男)、三好達治・渡辺一夫・小林秀雄・田辺貞之助・今日出海・朝倉季雄・田島宏などを排出する。田辺貞之助は後に早稲田大学教授となり私が師事を得た。時空を超えたつながりの不思議を感じている。


15:24

メルマガ第1号

金融緩和による「期待」への依存は資本主義の衰弱
                                                                   経済アナリスト 柏木 勉

 日銀の新総裁、副総裁が決定して、リフレ派が日銀の主導権を握った。副総裁となった岩田規久男氏は、かつてマネーサプライの管理に関する「日銀理論」を強く批判し、日銀理論を代表した翁邦雄氏と論争をくりひろげ、その後も一貫して日銀を批判してきた頑強なリフレ派である。

 さて、いまやインフレ目標2%達成に向けて、「「期待」への働きかけ強化」の大合唱となっている。この「期待」は合理的期待理論として欧米の主流派を形成している。そのポイントはこれまでにない大胆な金融緩和による「期待インフレ率の上昇」とされている。これによって実質金利を低下させ、それを通じて日本経済が陥っている流動性の罠からの脱出が可能になるというわけだ。ちなみに、近年ブレーク・イーブン・インフレ率なるものがよく出てくるが、これは普通国債の利回りから物価連動国債の利回りを引いて計算したものであり、期待インフレ率を表すとして利用されている。この期待インフレ率は、アベノミクスが騒がれ出してから、最近では1%程度にまで上昇してきた。同時に株高、円安が進んだ。これを見て「期待への働きかけ」は十分可能であり、現実に実証されつつあるとしてリフレ派の勢いは一層増している。

 リフレ派の主張に対しては様々な反論がなされている。その極端なものとしては、財政赤字が拡大する中で日銀が国債購入を増大させれば、財政ファイナンスとみなされ国債の信認(償還への信頼)が低下し、国債価格暴落で金利の急上昇がおこるというものだ。この時、設備投資はもちろん失速、財政は危機的状況をむかえる。もうひとつはカネを市中にジャブジャブに出していくわけだから、%インフレにとどまらずハイパーインフレをまねくというものだ。

 だが前者に対しては、いまだ家計の現金・預金が昨年で850兆円に増加し外国人の国債保有率も9%弱にとどまっているし、日本の金融機関の国債への信任は当分大丈夫だとか、また少なくとも今後の国債の新規発行分についてはその大半を日銀が購入してしまえば金利の大幅上昇はないとかの再反論がある。

 後者については遊休設備と多くの失業者を抱え潜在成長率との需給ギャップが大きい。だからハイパーインフレなどあり得ないとの再反論がある。その他様々な論点について論争はかまびすしい。

 だが問題は、リフレ派はデフレによる実質金利の上昇に焦点を絞っているのだから、実質金利と景気とりわけ利潤率との関係を見ることが必要だろう。実質金利の推移をみると、2000年代に入って近年まで実質金利は高い時でせいぜい2%強程度ときわめて低水準で推移している(ただし、リーマンショック直後を除く)。ちなみに80年代は5%台を上回っていたのである。そのなかでいざなみ景気は戦後最長を記録した。この間平均してCPIはマイナス.2%程度、実質経済成長率は2%弱と、日本経済はデフレ下で成長したのである。

 その後はリーマンショックにより大幅に落ち込み、回復ははかばかしくないが、ともかく2000年代全体を通じて、実質金利は長期にわたり低水準で大きな変化がないにもかかわらず、好況、不況が生じている。つまり景気の転換を左右しているのは実質金利以外の要因であり、例えばいざなみ景気の起動力となったのは、物価デフレよりも資産デフレからの脱却、デジタル家電を先頭としたデジタル革命、世界の工場となったアジアの生産ネットワークの形成、金抑制による労働分配率の低下であった。

 実質金利が高いと云う場合、何に対して高いのかが問題だが、むろん利潤率に対してだ。高くて2%程度の実質金利をクリアーできない利潤率が最大のネックなのだ。これを突破するのは最終的には不況下の合理化投資と需要創出型のイノベーションだ。デフレ下の低価格であっても利益を生むイノベーションである。しかし現状では200兆円におよぶ内部留保を抱えながら投資が低迷している。これはケインズの謂う企業家の「血気」の喪失というほかないだろう。
 
 そもそもインフレ期待を生むために、中央銀行による市場への説明能力やコミュニケーション能力などという小細工が大問題になるのは笑止千万というべきだろう。政府・日銀による「期待」の醸成という、お情けの支援なしには自ら投資に打って出ることができない。それほど「血気」が失われているわけだ。

 結局のところ、金融主導で金融面から資産効果を引き起こし、それによってようやく実体経済が動き出すというパターンしかとれず、それがまたバブルの形成・崩壊を繰り返すというのが現在の資本主義である。グローバル化で市場経済が世界中に浸透しているかの如く見えようとも、資本主義の中枢部分をなす先進国は、「期待」の醸成に頼るしかないという衰退の段階に入っている。

 

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これまでの研究会

第36回研究会(2020年11月28日)「ポストコロナ、日本企業に勝機はあるか!」(グローバル産業雇用総合研究所所長 小林良暢氏)


第37回研究会(2021年7月3日)「バイデン新政権の100日-経済政策と米国経済の行方」(専修大学名誉教授 鈴木直次氏)

第38回研究会(2021年11月6日)「コロナ禍で雇用はどう変わったか?」(独立行政法人労働政策研究・研修機構主任研究員 高橋康二氏)

第39回研究会(2022年4月23日)「『新しい資本主義』から考える」(法政大学教授水野和夫氏)

第40回研究会(2022年7月16日)「日本経済 成長志向の誤謬」(日本証券アナリスト協会専務理事 神津 多可思氏)

第41回研究会(2022年11月12日)「ウクライナ危機で欧州経済に暗雲」(東北大学名誉教授 田中 素香氏)

第42回研究会(2023年2月25日)「毛沢東回帰と民族主義の間で揺れる習近平政権ーその内政と外交を占う」(慶応義塾大学名誉教授 大西 広氏)

第43回研究会(2023年6月17日)「植田日銀の使命と展望ー主要国中銀が直面する諸課題を念頭に」(専修大学経済学部教授 田中隆之氏)

第44回研究会(2024年5月12日)「21世紀のインドネシア-成長の軌跡と構造変化
」(東京大学名誉教授 加納啓良氏)


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