日誌


2022/07/23

POLITICAL ECONOMY第219号

Tweet ThisSend to Facebook | by:keizaiken
ザビエル来日とパリ外国宣教会による再宣教  
                     元東海大学教授 小野豊和

 473年前の1549年8月15日にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した。当時の世界は大航海時代で、スペインはアメリカ大陸経由でフィリピンに到達。ポルトガルはアフリカ喜望峰経由でインドに達し1543年種子島に鉄砲を伝えた。当時は宗教面でも変化があり、プロテスタントが勢力を伸ばす中、カトリック教会としてイエズス会が設立されると、東アジアを布教の地に選び、ポルトガルの協力を得て創設者の一人フランシスコ・ザビエルを派遣した。

 ザビエルはマラッカで鹿児島出身のヤジロウと出会い日本への布教を決意し、トルレス神父等と共に鹿児島に上陸した。翌年、中国交易の拠点となっていた平戸にポルトガル船で移動すると領主松浦隆信は南蛮交易を行う目的でザビエルを歓迎、キリスト教布教も認め平戸がキリスト教布教の拠点となる。天皇に全国布教の許可を得ようと京に上るが、応仁の乱で権威が失墜していたため諦めて平戸に戻る。その後大村純忠(大村藩)さらに大内義隆(山口)、大友宗麟(豊後)等に歓迎され信者が増えていく。ザビエルは1551年にインドのゴアに戻り、元々の目的であった中国への布教を目指すが上海を目前に病死した。

 長崎が一大貿易港になるとトルレス神父等の活躍で島原半島の有馬領から西日本へ広まり、1560年にはルイス・フロイス神父が織田信長から布教許可を得て畿内での布教が始まる。高山右近、小西行長、黒田官兵衛など有力武士が洗礼を受け、1582年の全国信者は約15万人に達した。有馬セミナリオで学んだ伊東マンショ等4少年が天正遣欧使節として1585年にローマ教皇に謁見する。

豊臣秀吉が伴天連追放令

 しかし1587年、豊臣秀吉が伴天連追放令を発令、1597年、後に日本26聖人と呼ばれる処刑が行われる。徳川幕府は禁教令を踏襲、さらに鎖国政策を敷き、キリスト教を擁護するポルトガル人を長崎の出島に収容。1637年の島原の乱以降はポルトガルと断絶しキリスト教布教に拘らないオランダとの貿易体制に切り替えた。長崎奉行はキリスト教の徹底的な取り締まりを行い、踏み絵、懸賞訴訟制度、五人組連座制、寺請制度、宗門人別改帳制度など万全の体制によりキリシタンは次第に表舞台から消えていった。

 しかし、神父不在となっても自分たちで組織を作り、浦上、長崎港外の島々、外海で信仰を持ち続けた。彼らには「七代経つと黒船で宣教師がやってくる」という伝説の日本人修道士バスチャンの予言が心の支えだった。250年にわたる長い潜伏生活を経て、1865年3月17日、浦上の潜伏キリシタンたちが居留地のフランス寺と呼ばれる大浦天主堂を訪れてプティジャン神父に自分たちが同じ信仰を持っていることを打ち明けた(信徒発見)。

 大航海時代、欧州ではスペイン無敵艦隊が1588年のアマルダの海戦で英国艦隊に敗れると構図が変わり1622年ローマ教皇庁は自ら海外布教に乗り出す。一方イエズス会は1619年にマカオから日本布教の機会をうかがっていたが迫害で入国が難しく、やむなくベトナムの日本人町等で布教を続けた。フランス、特にパリの教区司祭たちが外国宣教を目指す目的で1653年にパリ外国宣教会を設立。現地人司祭育成の重要性を教皇に進言し、マカオを拠点にインドから中国方面への再宣教を託される。

 長い時を経て1858年徳川幕府が米・英・蘭・露・仏5カ国と修好通商条約を締結し長崎のほか神戸、横浜、新潟、函館の港を開放。外国人居留区が設置され、外国人のための教会建設が認められた。フランスも長崎上陸が許され、居留地にパリ外国宣教会のプティジャン神父が着任し大浦天主堂を建て信徒発見につながった。奇跡と思える世界的な朗報だったが、まだ禁教の時代で1867年長崎奉行が浦上の礼拝堂に踏み込みキリシタンを捕縛、投獄し、浦上四番崩れが始まった。

明治政府は欧米から批判受け黙認

 明治政府も禁教令を引き継ぎ1868年から70年にかけて浦上キリシタンの3,394人が西日本各地に流配され、流配地で613人が亡くなった。この迫害に欧米の批判が高まり、1873年2月24日、明治政府はキリシタン禁制の高札を撤去し事実上キリスト教を黙認した(信教の自由が明記されるのは1890年施行の大日本帝国憲法)パリ外国宣教会は「布教地を開拓して教会を建設し、邦人司祭を養成しこれに託し、新たに新開地を求めて去って行く」ことを使命とし1917年には日本人司祭が22人誕生した。

 そして1927年には早坂神父を日本人第一号の司教に叙階。九州を長崎、福岡、鹿児島の3つの教区に分け、大分・宮崎地区はサレジオ修道会に委託していく。ローマ教皇庁の指示のもと行政区の形で先導的な宣教活動を行い、ドミニコ会、コロンバン会さらには女子修道会を呼び、福祉事業から教育事業を根付かせていった。


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メルマガ第1号

金融緩和による「期待」への依存は資本主義の衰弱
                                                                   経済アナリスト 柏木 勉

 日銀の新総裁、副総裁が決定して、リフレ派が日銀の主導権を握った。副総裁となった岩田規久男氏は、かつてマネーサプライの管理に関する「日銀理論」を強く批判し、日銀理論を代表した翁邦雄氏と論争をくりひろげ、その後も一貫して日銀を批判してきた頑強なリフレ派である。

 さて、いまやインフレ目標2%達成に向けて、「「期待」への働きかけ強化」の大合唱となっている。この「期待」は合理的期待理論として欧米の主流派を形成している。そのポイントはこれまでにない大胆な金融緩和による「期待インフレ率の上昇」とされている。これによって実質金利を低下させ、それを通じて日本経済が陥っている流動性の罠からの脱出が可能になるというわけだ。ちなみに、近年ブレーク・イーブン・インフレ率なるものがよく出てくるが、これは普通国債の利回りから物価連動国債の利回りを引いて計算したものであり、期待インフレ率を表すとして利用されている。この期待インフレ率は、アベノミクスが騒がれ出してから、最近では1%程度にまで上昇してきた。同時に株高、円安が進んだ。これを見て「期待への働きかけ」は十分可能であり、現実に実証されつつあるとしてリフレ派の勢いは一層増している。

 リフレ派の主張に対しては様々な反論がなされている。その極端なものとしては、財政赤字が拡大する中で日銀が国債購入を増大させれば、財政ファイナンスとみなされ国債の信認(償還への信頼)が低下し、国債価格暴落で金利の急上昇がおこるというものだ。この時、設備投資はもちろん失速、財政は危機的状況をむかえる。もうひとつはカネを市中にジャブジャブに出していくわけだから、%インフレにとどまらずハイパーインフレをまねくというものだ。

 だが前者に対しては、いまだ家計の現金・預金が昨年で850兆円に増加し外国人の国債保有率も9%弱にとどまっているし、日本の金融機関の国債への信任は当分大丈夫だとか、また少なくとも今後の国債の新規発行分についてはその大半を日銀が購入してしまえば金利の大幅上昇はないとかの再反論がある。

 後者については遊休設備と多くの失業者を抱え潜在成長率との需給ギャップが大きい。だからハイパーインフレなどあり得ないとの再反論がある。その他様々な論点について論争はかまびすしい。

 だが問題は、リフレ派はデフレによる実質金利の上昇に焦点を絞っているのだから、実質金利と景気とりわけ利潤率との関係を見ることが必要だろう。実質金利の推移をみると、2000年代に入って近年まで実質金利は高い時でせいぜい2%強程度ときわめて低水準で推移している(ただし、リーマンショック直後を除く)。ちなみに80年代は5%台を上回っていたのである。そのなかでいざなみ景気は戦後最長を記録した。この間平均してCPIはマイナス.2%程度、実質経済成長率は2%弱と、日本経済はデフレ下で成長したのである。

 その後はリーマンショックにより大幅に落ち込み、回復ははかばかしくないが、ともかく2000年代全体を通じて、実質金利は長期にわたり低水準で大きな変化がないにもかかわらず、好況、不況が生じている。つまり景気の転換を左右しているのは実質金利以外の要因であり、例えばいざなみ景気の起動力となったのは、物価デフレよりも資産デフレからの脱却、デジタル家電を先頭としたデジタル革命、世界の工場となったアジアの生産ネットワークの形成、金抑制による労働分配率の低下であった。

 実質金利が高いと云う場合、何に対して高いのかが問題だが、むろん利潤率に対してだ。高くて2%程度の実質金利をクリアーできない利潤率が最大のネックなのだ。これを突破するのは最終的には不況下の合理化投資と需要創出型のイノベーションだ。デフレ下の低価格であっても利益を生むイノベーションである。しかし現状では200兆円におよぶ内部留保を抱えながら投資が低迷している。これはケインズの謂う企業家の「血気」の喪失というほかないだろう。
 
 そもそもインフレ期待を生むために、中央銀行による市場への説明能力やコミュニケーション能力などという小細工が大問題になるのは笑止千万というべきだろう。政府・日銀による「期待」の醸成という、お情けの支援なしには自ら投資に打って出ることができない。それほど「血気」が失われているわけだ。

 結局のところ、金融主導で金融面から資産効果を引き起こし、それによってようやく実体経済が動き出すというパターンしかとれず、それがまたバブルの形成・崩壊を繰り返すというのが現在の資本主義である。グローバル化で市場経済が世界中に浸透しているかの如く見えようとも、資本主義の中枢部分をなす先進国は、「期待」の醸成に頼るしかないという衰退の段階に入っている。

 

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次回研究会案内

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これまでの研究会

第35回研究会(2020年9月26日)「バブルから金融危機、そして・・・リーマン 兜町の片隅で実務者が見たもの(1980-2010)」(金融取引法研究者 笠原一郎氏)


第36回研究会(2020年11月28日)「ポストコロナ、日本企業に勝機はあるか!」(グローバル産業雇用総合研究所所長 小林良暢氏)

第37回研究会(2021年7月3日)「バイデン新政権の100日-経済政策と米国経済の行方」(専修大学名誉教授 鈴木直次氏)

第38回研究会(2021年11月6日)「コロナ禍で雇用はどう変わったか?」(独立行政法人労働政策研究・研修機構主任研究員 高橋康二氏)

第39回研究会(2022年4月23日)「『新しい資本主義』から考える」(法政大学教授水野和夫氏)

第40回研究会(2022年7月16日)「日本経済 成長志向の誤謬」(日本証券アナリスト協会専務理事 神津 多可思氏)

第41回研究会(2022年11月12日)「ウクライナ危機で欧州経済に暗雲」(東北大学名誉教授 田中 素香氏)

第42回研究会(2023年2月25日)「毛沢東回帰と民族主義の間で揺れる習近平政権ーその内政と外交を占う」(慶応義塾大学名誉教授 大西 広氏)

第43回研究会(2023年6月17日)「植田日銀の使命と展望ー主要国中銀が直面する諸課題を念頭に」(専修大学経済学部教授 田中隆之氏)

第44回研究会(2024年5月12日)「21世紀のインドネシア-成長の軌跡と構造変化
」(東京大学名誉教授 加納啓良氏)


これまでの研究会報告