ザビエル来日とパリ外国宣教会による再宣教
元東海大学教授 小野豊和
473年前の1549年8月15日にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した。当時の世界は大航海時代で、スペインはアメリカ大陸経由でフィリピンに到達。ポルトガルはアフリカ喜望峰経由でインドに達し1543年種子島に鉄砲を伝えた。当時は宗教面でも変化があり、プロテスタントが勢力を伸ばす中、カトリック教会としてイエズス会が設立されると、東アジアを布教の地に選び、ポルトガルの協力を得て創設者の一人フランシスコ・ザビエルを派遣した。
ザビエルはマラッカで鹿児島出身のヤジロウと出会い日本への布教を決意し、トルレス神父等と共に鹿児島に上陸した。翌年、中国交易の拠点となっていた平戸にポルトガル船で移動すると領主松浦隆信は南蛮交易を行う目的でザビエルを歓迎、キリスト教布教も認め平戸がキリスト教布教の拠点となる。天皇に全国布教の許可を得ようと京に上るが、応仁の乱で権威が失墜していたため諦めて平戸に戻る。その後大村純忠(大村藩)さらに大内義隆(山口)、大友宗麟(豊後)等に歓迎され信者が増えていく。ザビエルは1551年にインドのゴアに戻り、元々の目的であった中国への布教を目指すが上海を目前に病死した。
長崎が一大貿易港になるとトルレス神父等の活躍で島原半島の有馬領から西日本へ広まり、1560年にはルイス・フロイス神父が織田信長から布教許可を得て畿内での布教が始まる。高山右近、小西行長、黒田官兵衛など有力武士が洗礼を受け、1582年の全国信者は約15万人に達した。有馬セミナリオで学んだ伊東マンショ等4少年が天正遣欧使節として1585年にローマ教皇に謁見する。
豊臣秀吉が伴天連追放令
しかし1587年、豊臣秀吉が伴天連追放令を発令、1597年、後に日本26聖人と呼ばれる処刑が行われる。徳川幕府は禁教令を踏襲、さらに鎖国政策を敷き、キリスト教を擁護するポルトガル人を長崎の出島に収容。1637年の島原の乱以降はポルトガルと断絶しキリスト教布教に拘らないオランダとの貿易体制に切り替えた。長崎奉行はキリスト教の徹底的な取り締まりを行い、踏み絵、懸賞訴訟制度、五人組連座制、寺請制度、宗門人別改帳制度など万全の体制によりキリシタンは次第に表舞台から消えていった。
しかし、神父不在となっても自分たちで組織を作り、浦上、長崎港外の島々、外海で信仰を持ち続けた。彼らには「七代経つと黒船で宣教師がやってくる」という伝説の日本人修道士バスチャンの予言が心の支えだった。250年にわたる長い潜伏生活を経て、1865年3月17日、浦上の潜伏キリシタンたちが居留地のフランス寺と呼ばれる大浦天主堂を訪れてプティジャン神父に自分たちが同じ信仰を持っていることを打ち明けた(信徒発見)。
大航海時代、欧州ではスペイン無敵艦隊が1588年のアマルダの海戦で英国艦隊に敗れると構図が変わり1622年ローマ教皇庁は自ら海外布教に乗り出す。一方イエズス会は1619年にマカオから日本布教の機会をうかがっていたが迫害で入国が難しく、やむなくベトナムの日本人町等で布教を続けた。フランス、特にパリの教区司祭たちが外国宣教を目指す目的で1653年にパリ外国宣教会を設立。現地人司祭育成の重要性を教皇に進言し、マカオを拠点にインドから中国方面への再宣教を託される。
長い時を経て1858年徳川幕府が米・英・蘭・露・仏5カ国と修好通商条約を締結し長崎のほか神戸、横浜、新潟、函館の港を開放。外国人居留区が設置され、外国人のための教会建設が認められた。フランスも長崎上陸が許され、居留地にパリ外国宣教会のプティジャン神父が着任し大浦天主堂を建て信徒発見につながった。奇跡と思える世界的な朗報だったが、まだ禁教の時代で1867年長崎奉行が浦上の礼拝堂に踏み込みキリシタンを捕縛、投獄し、浦上四番崩れが始まった。
明治政府は欧米から批判受け黙認
明治政府も禁教令を引き継ぎ1868年から70年にかけて浦上キリシタンの3,394人が西日本各地に流配され、流配地で613人が亡くなった。この迫害に欧米の批判が高まり、1873年2月24日、明治政府はキリシタン禁制の高札を撤去し事実上キリスト教を黙認した(信教の自由が明記されるのは1890年施行の大日本帝国憲法)パリ外国宣教会は「布教地を開拓して教会を建設し、邦人司祭を養成しこれに託し、新たに新開地を求めて去って行く」ことを使命とし1917年には日本人司祭が22人誕生した。
そして1927年には早坂神父を日本人第一号の司教に叙階。九州を長崎、福岡、鹿児島の3つの教区に分け、大分・宮崎地区はサレジオ修道会に委託していく。ローマ教皇庁の指示のもと行政区の形で先導的な宣教活動を行い、ドミニコ会、コロンバン会さらには女子修道会を呼び、福祉事業から教育事業を根付かせていった。