日誌


2020/05/13

POLITICAL ECONOMY第167号

Tweet ThisSend to Facebook | by:keizaiken
新型コロナ感染症拡散下、日本における企業広報の変遷を考える

                                             元東海大学教授 小野豊和

 戦後、日本にパブリック・リレーションズ(PR)の考えを持ち込んだのはGHQ(連合軍総司令部)で、その対象は行政であった。PRの概念は「組織とは社会から認められて初めて存在しうるもので、認められるためには、社会の利益に合った経営が為されていなければならない。そして、そのように経営されていることを社会(パブリック)に知らせることが必要」ということである。

 GHQはすべての日本人に民主主義の考え方を浸透させるため、全国の自治体にパブリック・リレーションズ・オフィスを設置し啓蒙活動を行った。1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効、日本は正式に国家としての全権を回復するが、GHQ統治下で民間企業にも次第にPRの考え方が普及していく。1949年に野村証券社長の奥野網雄氏が“企業PRの必要性”を提唱。PRを生産、販売、金融と並んで経営の四本柱と位置づけた。また、1953年には日本経営者団体連盟が“弘報研究会”をつくり、社内弘報を中心にして労使協調路線を打ち出した。

スタートは「いかにマスコミに露出するか」がキーワード

 1950年代には、日本航空、東京ガス、松下電器(パナソニック)などが次々と広報部門を設置することで第一次広報部門設置ブームが始まった。その狙いは「マーケティング型広報」で「いかにしてマスコミに露出するか」が重要な鍵だった。1950年代後半から60年代に電通PRセンターなどPR会社が続々誕生した。1960年代の高度成長を経て、1970年代に開かれた大阪万国博覧会の頃になると企業の“イベント広報“が花開く。しかし、こうした繁栄の陰に副産物として生まれたのが”公害”であった。(図参照
 1970年代に入ると公害問題に加え、二重価格、欠陥商品、不祥事など企業批判が高まり、広報も”マーケティング型”から”企業防衛型”に大きく転換することになり、第二次広報部門新設ブームが起こった。1970年代には白黒テレビの普及率が90%を超えた。また、『週刊新潮』創刊以来、雑誌ジャーナリズムは百花繚乱の時代を迎えた。そんな中、第四次中東戦争(1973年)に端を発したオイル・ショックが日本を襲う。企業を取り巻く環境が厳しくなる中、1978年に経団連を母体として財団法人経済広報センターが設立され、個々の企業の広報部門を束ねる活動を展開する。

 1980年代になると、広報関係者の間ではCI(コーポレート・アイデンティティ)、CC(コーポレート・コミュニケーション)がブームになり、「企業トップの役割、トップ広報」が重視され、一方で不祥事やPL(プロダクト・リライアビリティ:製造物責任)を問われるようになる。

 1990年代に入ると、「企業の文化貢献、社会貢献」すなわち「メセナ」「フィランソロピー」活動に注目が集まり、企業と社会との新たな関係が構築されるようになった。国際的にもソ連崩壊で東西冷戦体制が崩れ、市場のグローバル化が一挙に進んだ。マルチメディアの発達や世界経済のボーダーレス化の進展などで企業の経営環境は大きく変化すると広報の役割も変化し、対象がマスメディアだけでなく、株主・投資家・従業員・地域住民・オピニオンリーダーなどあらゆるステークホルダーへと広がっていった。広報活動の成否はマスコミとの人脈づくりにウエイトが置かれ、新聞各紙の経済部長、経済誌編集長懇談会の推進によるファンづくりに力を入れる戦略広報へと転換していく。

ネット普及で媒体に変化

 日本の社会全体としては80年代以降、失われた10年、20年と言われつつミレニアムを迎えた。広報ツールにも変化が起こる。パソコン、インターネットの普及により紙媒体のプレスリリース・写真の郵送が不要となるが、マスコミ・企業双方でface to faceの関係が薄れていくことで誤った情報が掲載されることも起こる。経団連記者クラブの解体により発表案件の48時間ルール(発表テーマの予告と記事掲載拘束)が無くなると、広報活動は媒体個別に行う必要が生じた。2000年代になると、ニュースレターは企業のホームページから入手可能となり、マスコミもweb版で予定原稿を書き、駅販売・配達の紙媒体に掲載するシステムができる。一方、新聞は一部の地方紙を除いて全国紙読者の大幅減によりweb化が進む。しかしweb化は読者獲得とはならず、国民のニュースに対する関心が薄れていく。バナー広告で世界を席巻したGAFAの登場により企業のPR活動は従来型のマスメディアと付き合いつつSNSを重要視し、facebookなどを重要な広報媒体の対象としていく。

 さてコロナ時代のマスコミ報道は昭和天皇の健康状態報道と似ている。日々の感染状況がテレビ媒体を通じて報道され、全国の首長が行動指針等を発表。民間企業は世界的な行動自粛によって事業活動が困難な状況に追い込まれるが、世の中の関心対象ではなくなり、医療従事者が表に登場してきた。企業の広報担当者もメディアの記者もテレワークを余儀なくされるが、取材の現場は変わらない。非対面、非接触、リモートが“新しい普通”のビジネススタイルとなる中で、価値ある情報を社会(パブリック)に知らせる手法の模索は続く。


08:56

メルマガ第1号

金融緩和による「期待」への依存は資本主義の衰弱
                                                                   経済アナリスト 柏木 勉

 日銀の新総裁、副総裁が決定して、リフレ派が日銀の主導権を握った。副総裁となった岩田規久男氏は、かつてマネーサプライの管理に関する「日銀理論」を強く批判し、日銀理論を代表した翁邦雄氏と論争をくりひろげ、その後も一貫して日銀を批判してきた頑強なリフレ派である。

 さて、いまやインフレ目標2%達成に向けて、「「期待」への働きかけ強化」の大合唱となっている。この「期待」は合理的期待理論として欧米の主流派を形成している。そのポイントはこれまでにない大胆な金融緩和による「期待インフレ率の上昇」とされている。これによって実質金利を低下させ、それを通じて日本経済が陥っている流動性の罠からの脱出が可能になるというわけだ。ちなみに、近年ブレーク・イーブン・インフレ率なるものがよく出てくるが、これは普通国債の利回りから物価連動国債の利回りを引いて計算したものであり、期待インフレ率を表すとして利用されている。この期待インフレ率は、アベノミクスが騒がれ出してから、最近では1%程度にまで上昇してきた。同時に株高、円安が進んだ。これを見て「期待への働きかけ」は十分可能であり、現実に実証されつつあるとしてリフレ派の勢いは一層増している。

 リフレ派の主張に対しては様々な反論がなされている。その極端なものとしては、財政赤字が拡大する中で日銀が国債購入を増大させれば、財政ファイナンスとみなされ国債の信認(償還への信頼)が低下し、国債価格暴落で金利の急上昇がおこるというものだ。この時、設備投資はもちろん失速、財政は危機的状況をむかえる。もうひとつはカネを市中にジャブジャブに出していくわけだから、%インフレにとどまらずハイパーインフレをまねくというものだ。

 だが前者に対しては、いまだ家計の現金・預金が昨年で850兆円に増加し外国人の国債保有率も9%弱にとどまっているし、日本の金融機関の国債への信任は当分大丈夫だとか、また少なくとも今後の国債の新規発行分についてはその大半を日銀が購入してしまえば金利の大幅上昇はないとかの再反論がある。

 後者については遊休設備と多くの失業者を抱え潜在成長率との需給ギャップが大きい。だからハイパーインフレなどあり得ないとの再反論がある。その他様々な論点について論争はかまびすしい。

 だが問題は、リフレ派はデフレによる実質金利の上昇に焦点を絞っているのだから、実質金利と景気とりわけ利潤率との関係を見ることが必要だろう。実質金利の推移をみると、2000年代に入って近年まで実質金利は高い時でせいぜい2%強程度ときわめて低水準で推移している(ただし、リーマンショック直後を除く)。ちなみに80年代は5%台を上回っていたのである。そのなかでいざなみ景気は戦後最長を記録した。この間平均してCPIはマイナス.2%程度、実質経済成長率は2%弱と、日本経済はデフレ下で成長したのである。

 その後はリーマンショックにより大幅に落ち込み、回復ははかばかしくないが、ともかく2000年代全体を通じて、実質金利は長期にわたり低水準で大きな変化がないにもかかわらず、好況、不況が生じている。つまり景気の転換を左右しているのは実質金利以外の要因であり、例えばいざなみ景気の起動力となったのは、物価デフレよりも資産デフレからの脱却、デジタル家電を先頭としたデジタル革命、世界の工場となったアジアの生産ネットワークの形成、金抑制による労働分配率の低下であった。

 実質金利が高いと云う場合、何に対して高いのかが問題だが、むろん利潤率に対してだ。高くて2%程度の実質金利をクリアーできない利潤率が最大のネックなのだ。これを突破するのは最終的には不況下の合理化投資と需要創出型のイノベーションだ。デフレ下の低価格であっても利益を生むイノベーションである。しかし現状では200兆円におよぶ内部留保を抱えながら投資が低迷している。これはケインズの謂う企業家の「血気」の喪失というほかないだろう。
 
 そもそもインフレ期待を生むために、中央銀行による市場への説明能力やコミュニケーション能力などという小細工が大問題になるのは笑止千万というべきだろう。政府・日銀による「期待」の醸成という、お情けの支援なしには自ら投資に打って出ることができない。それほど「血気」が失われているわけだ。

 結局のところ、金融主導で金融面から資産効果を引き起こし、それによってようやく実体経済が動き出すというパターンしかとれず、それがまたバブルの形成・崩壊を繰り返すというのが現在の資本主義である。グローバル化で市場経済が世界中に浸透しているかの如く見えようとも、資本主義の中枢部分をなす先進国は、「期待」の醸成に頼るしかないという衰退の段階に入っている。

 

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次回研究会案内

次回研究会決まり次第掲載します




 

これまでの研究会

第36回研究会(2020年11月28日)「ポストコロナ、日本企業に勝機はあるか!」(グローバル産業雇用総合研究所所長 小林良暢氏)


第37回研究会(2021年7月3日)「バイデン新政権の100日-経済政策と米国経済の行方」(専修大学名誉教授 鈴木直次氏)

第38回研究会(2021年11月6日)「コロナ禍で雇用はどう変わったか?」(独立行政法人労働政策研究・研修機構主任研究員 高橋康二氏)

第39回研究会(2022年4月23日)「『新しい資本主義』から考える」(法政大学教授水野和夫氏)

第40回研究会(2022年7月16日)「日本経済 成長志向の誤謬」(日本証券アナリスト協会専務理事 神津 多可思氏)

第41回研究会(2022年11月12日)「ウクライナ危機で欧州経済に暗雲」(東北大学名誉教授 田中 素香氏)

第42回研究会(2023年2月25日)「毛沢東回帰と民族主義の間で揺れる習近平政権ーその内政と外交を占う」(慶応義塾大学名誉教授 大西 広氏)

第43回研究会(2023年6月17日)「植田日銀の使命と展望ー主要国中銀が直面する諸課題を念頭に」(専修大学経済学部教授 田中隆之氏)

第44回研究会(2024年5月12日)「21世紀のインドネシア-成長の軌跡と構造変化
」(東京大学名誉教授 加納啓良氏)


これまでの研究会報告