独仏銀行の経営責任隠蔽を許さず、ユーロと欧州統合の夢を
防衛せよ!
経済アナリスト 柏木 勉
安保法制の成立で日本は「戦争を行う国」になった。憲法9条に違反し、平和憲法をなし崩しにして「国軍を保有し戦争を行う普通の国」に転換させようとする目論見が現実のものとなった。そもそも平和憲法は、国民国家なるものと国民国家間の大規模戦争を廃絶しようとする世界の最先端に位置する希望であった。だが、安倍政権は時代遅れのナショナリズムによる国民国家意識にもとづき、国民の反対を押し切って安保法制を成立させたのである。だが、「国民国家」とか「国民」とかはせいぜいフランス革命以降に成立したものでしかない。それは世界史的段階からすれば変化・解体していくものである。
だから国を守れ、国民を守れなどと叫ぶのは、歴史的に相対的存在でしかないものを絶対視するという全くの誤謬に陥っている(いわゆる中国や北朝鮮等の脅威なるものが存在するのは、これらの国の支配者が、いまだナショナリズムによる求心力で国民国家の枠組みを形成・維持しようとする後進国であるからだ。戦前の日本も全く同じであった)。
今回はギリシャ危機とユーロ防衛を論じたいのだが、それはいうまでもなくユーロと欧州統合が国民国家解体の漸進的な流れをつくりだしてきたからである。つまりユーロと欧州統合の夢を防衛することは、今後の安保法制の打破・廃棄につながる問題でもあるからだ。
ユーロはギリシャ危機の長期化によって、崩壊の危機を迎えているとか欧州統合の夢は終わったとか色々に論じられている。しかし、このような論調に欠けているのは現在のユーロ危機において重要かつ本質的な点が隠蔽されている点である。この隠蔽を各国国民に明示することによってこそ、欧州統合の流れを再度強化することができるだろう(なお、ユーロ危機は様々な論点があるが、今回は隠蔽された重要な点だけ述べる。その他は別稿に譲りたい)。
それを最初に云ってしまえば、ギリシャ危機における独仏銀行の経営責任の追及である。この点が隠蔽されているので、問題がドイツ国民とギリシャ国民の対立、北欧国民と南欧国民の対立という様な国民と国民の対立、文化と文化の対立に転化されてしまったのだ。
売り逃げた独仏銀行
そこで、問題の本質がすりかえられてしまったメカニズムをごく簡単に述べると、次の様になる(字数制限のため多少舌足らずの説明になるが、本質は変わらない)
まず、2009年末にギリシャの巨額の財政赤字が明らかになった。これを契機に市場では混乱が始まった。当時ギリシャ国債の4分の3は独仏銀行を中心に他国の銀行が保有していた。これら銀行はギリシャ国債という巨額の不良債権を抱えるに至ったのである。そこで、ギリシャ支援の名のもとにIMF(国際通貨基金)、EC(欧州委員会)、ECB(欧州中央銀行)の3
者から成るトロイカがギリシャに救済融資を行った(その後すったもんだの議論の末にECBのギリシャ国債購入も可能になった)。この救済策によって、ギリシャは満期の来た自国国債の償還や国債発行が可能になった。
だが、これによって独仏銀行はギリシャ国債からの脱出・売り逃げが可能になり、不良債権による巨額損失を免れることができたのである。つまり、ギリシャはトロイカから借りた金で、満期が到来した独仏銀行保有の国債の償還を行う。独仏銀行は償還金を受け取るが、それ以降ギリシャ国債を買うことはない。するとどうなったか?
トロイカという公的機関へのギリシャの借金だけが残ることになったのだ。言い換えると、ギリシャ政府の独仏銀行への借金がトロイカという公的機関に対する借金へと移転しただけなのだ。独仏銀行は、通常の取引であれば自分たちが負うべき巨額損失を公的機関に移しかえることができた。トロ
イカの融資の財源は何らかの形で各国の国民負担で調達されている。だから単純化すると国民負担(要は税負担)による公的資金が独仏銀行に投入されて銀行が救われたのと同じである。この点が国民の眼から隠蔽されているのだ。隠蔽されているから前述の国民と国民の対立が生まれているのだ。
問われる貸し手責任
無論、ギリシャ危機の勃発によってギリシャ以外の国債価格も暴落し、独仏銀行をはじめEU全体の金融危機とソブリン危機が懸念されていたことも事実だ。それを防止するために銀行を救うことが必要だったのは理解できる。しかし、そうだとしてもギリシャ危機を引きおこすに至った独仏銀行の
経営責任、つまり貸すべきでないところ(ギリシャ政府)へ貸したという民間銀行としての投資判断の誤りを明確化すべきだ。甘い投資判断の誤りによって結局のところ各国の国民負担が生じてしまったのだ。銀行の経営責任を追及し、銀行とその経営層に責任をとらせることが必要不可欠である。そ
れこそが各国の間に生じた国民的対立を緩和し、ユーロ防衛を可能にする重要な一歩となるだろう。